【ARUHIアワード12月期優秀作品】『まだ見ぬ君へ』潮楼奈和

 朝ごはんを終えると、初音は顔をそむけながら鶏ガラから身を薄く剥がしていた。
 そんな初音を見て、修平はスープをかき回しながら笑っている。
「しょうがないでしょ! アバラとか生々しいんだもん」
「普段、美味いと思ってるものも、見えないだけで何かが生きてた痕跡だよ」
「ダイレクトに伝わるかどうかは大事。豚の頭焼いて正面から目を合わせながら、その肉削ぎ落としたいと思う?」
「丸焼きにしたら眼球は見えないんじゃないか。豚のまぶたも閉じてるだろうし」
「そういう問題じゃない」
 ブツブツ言いながら細くバラバラに崩れそうなガラから、肉をこまめに削ぎ落とす。
「手伝わないって言ったのに」
「味に関係ないところだから、手伝っても俺の料理だ」
「どういう理屈よ」
「それが終わったら、米炊いて」
「わかったわよ。やればいいんでしょ」
 初音が断らないのを知っているかのように、修平は次々に用事を言いつける。そうしているうちに、スープの香りがスパイス混じりに変わり始めた。
 炊飯器が炊きあがりを知らせると、修平は慣れた手付きでアーモンドをみじん切りにする。まな板に当たるトントンという音と、アーモンドが砕けるザクザクという音が心地よく響き合う。
 この瞬間だけは、面倒くさい父親の趣味に初音も陥落させられる。
「……一時休戦」
「争ってないだろ」
 否定しつつも満足げに、修平はカレーを盛り付ける。具がすっかり溶け切って、だしと野菜の旨味が濃縮したカレーは白い島を包み込むようになめらかに流れ込んだ。
 刻んだアーモンドをパラパラとふりかけて初音の前に出されたカレーに、初音は思わず手を合わせる。
「ありがたや」
「そこ、いただきますだろ」
「いいじゃん。命なんでしょ」
 初音はそれだけ言うと、カレーをすくい上げて口に運ぶ。
「辛っ」
「それがカレー」
 初音はフーフー言いながら、カレーを口に運ぶ。
「美味いか」
「辛いけどおいしい」
「だろ?」
 満足げな顔の修平が、副菜のボウルを出す。
 初音が削ぎ落としたガラ肉は、マスタードと醤油で和えられていた。スープにすっかり味を奪われた身は、醤油がしみて、マスタードの甘酸っぱさとよく合った。
 もう何度も食べているはずなのに、この日は特別な食事だった。めったに戻れなくなった修平が、久しぶりに作った手料理。
 おふくろの味というのはよくあるけれど、初音にとって、それはオヤジの味だった。
「美味いよな」
 もう一度、修平は確認するように呟いた。
「うん」
 初音も小さく、頷いた。

 その知らせは突然だった。
 修平が入院している病院から、急変の連絡が入ったのは、カレーを食べた一時帰宅から二週間、初音が会社で、会議中の書類をコピーしている時だった。
 その電話の後は、あまり覚えていない。
 コピー機がただ、ひたすら白い紙を排出しているのを、同僚が慌てて止めた。

 病院にかけつけると、酸素マスクをつけた修平が土気色で横たわっていた。初音に気づくとかろうじて目線を向けたが、その焦点は合っているようで、合っていなかった。
 修平の口が何か言いたそうにかすかに動いた。
 アラームが鳴る。処置のために部屋から出るように促された初音は、廊下で何もできず、ただ、スマホを見た。

「来て! 今すぐ。父に会って」
 知らせる気はなかったのに、真人に電話をかけていた。安心させたくなかった。安心してしまうと、修平がどこかに行ってしまう気がしていた。だからずっと会わせることを避けていた。
 真人が駆けつけたのと同時に、警告アラームは平坦なものへと変わった。
 ふわふわとした浮遊感に包まれて、初音にはまるで目の前の出来事が、ドラマか映画のように現実味のない世界のように思えた。

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