アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた10の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
父からの電話を受けたのは、初音が生活の六割を過ごしていた彼、真人の家だった。
「父さん、この週末、帰ってくるんだって」
初音が電話を切った後、そばにいた真人は、ゲームをしていたスマホを置いて、座り直す。
「……挨拶、しといた方がいい?」
「別にいいよ。結婚するわけでもないし」
初音の言葉に真人が少しほっとする。そういう感情がだだ漏れてしまうのが真人の正直な良さであり、欠点でもある。
「この週末、私、実家に戻るから。宅配来るから受け取っておいてくれる?」
「わかった。ねえ、はっちゃん」
真人の目が泳ぎながら、言葉を探している。いい話か悪い話か。どちらにせよ馬鹿正直な真人が言葉を選ぶくらいには大切なことなのだろう。初音は何を言われても平気と装える程度には心構えをする。
「結婚する?」
「……は?」
初音は思わず聞き返した。ついさっき親に会わないことに安堵した男の口から、結婚という単語が出るとは思っていなかった。
真人は慌てて言い直す。
「今じゃなくて。ほら、まだ貯金もあまりないし。でもいつか、ちゃんと、お父さんに会わせてくれるかな。今、って言われるとまだ心の準備ができてないんだけど」
「うん。いいよ」
なんの事はない。真人なりに、つい本音がにじみ出た自分の気持ちが、初音に拒否ではなく保留だと伝えたいということだ。今じゃない。それでも初音には十分だった。
*
「せっかくリフォームしたのに、全然料理してないだろ、お前」
久しぶりに実家に帰った父、修一は、築二十年の家にそこだけポツンと真新しい、汚れのないキッチンに立った。
「たまに料理くらいしてますー」
言い返した初音は心の中で(真人の家で)と付け加えた。
「どうだか。頼んどいたやつ、買っといてくれたか?」
「冷蔵庫に入ってる。あと、なんだっけ」
「玉ねぎと人参、セロリ。じゃがいも。あとマスタードあるか」
「古いのなら」
「どうせなら新しいの買って来い」
「今から?」
「野菜切るところ見ててもつまらんだろ」
そう言いながら、修一は冷蔵庫を開けて、食材をチェックし始めた。新しい鶏ガラを見つけると、取り出して洗い、寸胴鍋に放り込む。
黙々と料理を始めた修一に、初音は少し呆れながら、財布を持った。
*
マスタードを買って戻ると、キッチンから肉と野菜がぐずぐずに煮込まれていく香りが漂ってきた。玉ねぎとセロリの匂いが濃い、嗅ぎ慣れた下ごしらえの匂いだ。
「マスタード、買ってきたよ」
「おう、コーヒー、入れてくれ」
「はいはい」
進物を放り込んだだけのカゴからたまっていたインスタントドリップの袋を取り出す。白い不織布をピリピリと破ると、スープの匂いに乗って、コーヒー豆の香りが飛び込んできた。
やかんを火にかけると、修平は鍋の火を弱火にして、自分はダイニングの定位置に座る。
「茶請けはないのか」
「あるけど、食べすぎないでよ」
「うちに帰った時くらい、自由にさせてくれよ」
「健康のため。……いつ戻るの」
「明後日には」
「送っていく?」
「いいよ。仕事あるだろ」
やかんがカタカタと音を立て始めた。
初音がカップにコーヒーを引っ掛け、やかんを下ろしてお湯を注ぐ。
「やっぱり缶コーヒーより、淹れたてだよな」
「そう思うなら、早く帰ってくれば」
「帰っても、お前がいないだろ」
初音は、自分のコーヒーを淹れる手を止めた。
「知ってたの」
「食材もない、ゴミもない。生活感がないんだよ」
「なに、その観察力」
「……いい奴か」
「そう聞かれてダメなやつって言うと思う?」
「じゃあ会わせろ」
「やだよ」
「親に会わせられないような奴なのか」
「そういうところが面倒くさいって言ってんの。別に結婚するわけじゃないし」
「結婚もしないのに一緒に暮らしてるのか」
「別に引っ越ししたわけじゃないから。はい、この話はおしまい!」
強制的に初音は会話を終了させた。真面目につきあっていないわけじゃない。真人と父親を会わせるのが嫌なわけでも、結婚したくないわけじゃない。ただ、今じゃないのだ。