いつの間にか、あたりは静かになっていた。廊下でベンチに座っている初音の横に、真人が黙って並んでいた。
「ごめん」
沈黙を破るように真人が切り出した。
「すぐ来るって言ったのに、間に合わなくて」
そうだ。真人はずっと、会おうと言ってくれていた。修平もだった。
じわじわと初音の中に悔恨の念が広がり始めた。もう、修平と真人が会うことは、永遠にないのだ。自分がそうさせてしまった。ただ、修平がいなくなることが怖くて。
「ごめん、ごめんなさい」
「なんではっちゃんが謝るの」
泣きじゃくる初音の背中を、真人はやさしくさすった。
「……会わせてもらって、いい?」
「……うん」
看護師が病室から出てきて、ちょうど支度が終わったと告げると、真人は部屋に一礼して、踏み入れた。
初音は整えられた修平の姿に、また涙がこみ上げてきたが、目をこすると、凛と立つ。
「お父さん。こちら滝川真人さん。私の彼」
「初めまして。滝川真人です。恋人はそろそろ卒業しようと思ってます。初音さんが許してくれるなら、婚約者に昇格予定です」
「は?」
驚いて初音は真人を見上げた。真人の顔はいたって真剣だ。
もう動かない修平に向かって、ゆっくりと言葉を投げかける。
「きっと、婚約期間は長くなってしまうし、安心させられるほどじゃないです。だって、お父さんには敵わないでしょ。自分が死ぬかもって時に、最後に何をしたいかって、娘へのカレー作りだよ? どんだけ毎日が楽しかったんだよって思いますよ。そんな毎日が、すぐ自分でどうにかできるなんて無理でしょ? だから」
真人が初音を見つめた。
「俺も、もし最後に何をしますかと聞かれたら、初音にカレーを作りたいって思えるような毎日にしていきます」
「……却下」
初音が唇を噛み締めながら、はっきりと拒否をする。
「なんで?」
「それじゃ、真人が私より先に死ぬ前提」
「あ。……わかった。訂正する。じゃあ、ええと」
「いいよ、もう。父さんには、多分、伝わったと思う」
「あ、そう。そうか」
真人のしまらなさは、初音の心を凪のように落ち着かせてくれた。
修平は、真人に会えていたら、どんなことを、真人に言ったんだろうか。
*
初音の疑問は、答えが出ないものだった。答えるはずの修平はもう何も話せない。
初七日も過ぎた頃、少しずつ修平のものを片付け始めた。
初音を心配していた真人は、今度は部屋と初音の実家を行き来している。
「キッチンだけ新しいって、なんか不思議だね」
初めて家に来た真人の感想がこれだった。
庶民的で昔ながらの畳の居間がある家に、キッチンとダイニングだけ、おしゃれな今風にリフォームしたものだから、周りとの調和はまるでない。
「キッチンのリフォームは趣味のためみたいなものだから」
スパイス棚にある大量のスパイスの賞味期限を確認しながら、初音は前より使いやすいことに気がついた。
修平も初音も、背は高い方だったから、古いキッチンは低くて少し使い辛かった。
そんなところに修平のこだわりの気配を感じて、初音は少しほっとする。
片付けを手伝っていた真人が、一冊のノートを見つけた。
「何これ」
差し出されたノートの表紙には「まだ見ぬ君へ」と書かれている。
初音が受け取ってページを捲る。
ノートには、修平のレシピが書き綴られていた。
お弁当、誕生日、初音が何が好きで、何が嫌いか、長い間の修平が初音に作ってきた食事の記録だった。
「こんなの残してたの?」
初音はめくり続ける。
最後のページに、カレーがあった。そこにはレシピと、一通の手紙のような文章があった。
――まだ見ぬ君へ
初音が会わせてくれないが、会わせないということは、俺の確認なんて不要なくらい、きっと君を信用しているんだろう。どんな奴なのか知らないが。
何も教えて貰えないので、こんな臭い書き出しになる。それでもこれを残しておくのは、君に言いたいことがあるからだ。
初音は口が悪い。でもそれは照れ隠しだ。料理も上手いとは言えない。でも努力はする。そして怖がりだ。すぐ悪いことを想像して身動きが取れなくなる。俺が何もできなくなっても、きっと君がいてくれる。
どうしても困ったら、このカレーを作るといい。おいしいものを食べると初音は急に静かになるはずだ。
コツは出汁だ。ルーはJカレーの辛口を使え。
「市販品!?」
「手はかけてるし、いいんだよ、お義父さんの味で……」
笑いながら真人は続きを読む。
「なお、冷凍庫にはカレーを保管してある。ぜひ食べてほしい」
ふたりは顔を見合わせると、慌てて冷凍庫を開ける。
奥から青いタッパーに入ったカレーが出てきた。
真人「今晩、カレーにする?」
初音「食べろって言ってるしね」
真人に会うと修平は何を言うのか。考えるまでもない。
初音はタッパーを戻し、そっと冷凍庫を閉める。
今日の夕飯は何でもない日の、特別なカレーだ。
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