そういえば、私は花が好きだった。それなのに、今ではあんな風にゆっくりと眺めることもなくなって、いつしかただの背景でしかないように、素っ気なく見過ごすようになっていた。目的地へと急ぐ余り、周りのものが目に入らなくなっていたんだ。変わって行くそんな自分に、気付いてすらいなかった。
現実と向き合って、懸命に生きているつもりだった。だけど本当は、その“現実”を言い訳にして、自分から逃げていただけなのかもしれない。
何気なくそう思った時、突然霞が晴れたように、視界が大きく開けた気がした。そして、暗いばかりの夜の世界が、桜の彩るパノラマの世界に変わる。
「……ああ、すごい。こんなに綺麗だったんだな……」
昔は、この景色が本当に好きだった。どうして忘れていたんだろう。目まぐるしく変わる日常の中でも、ずっと変わらずそこにあったはずなのに。多くの思い出に寄り添って、嵐の中の灯台のように、私を支えてくれていたのに。
もしかしたら、彼も同じように、桜越しに何かを見ているのだろうか。
私はまた、桜の前で立ち尽くす青年に視線を戻した。すると、ちょうどその時、彼はふらっと崩れるように膝をつく。
「……あっ」
思わず小さく声を上げてしまった。しかし、それは誰にも届くことなく、軽く吹いただけの風にあっさりのみ込まれて行く。
改めて辺りを見回しても、彼と私以外に人の姿はなかった。どうしようか迷ったけど、黙って見過ごすわけにもいかない。私はゆっくりと彼のそばへ歩み寄った。
「――あの、大丈夫ですか?」
恐る恐る声をかけると、彼は首だけを振るように小さく振り返った。いかにも一匹狼というか、暗く静かな印象。動物のたてがみのように風になびく髪の隙間から、力なくも鋭い眼光が覗いていた。しかし、それも一瞬のことで、またすぐに顔を伏せられてしまう。
答えられないというよりは、答えたくないという感じだった。意識もはっきりしているし、深刻な状態ではなさそうだけど……。
「どこか具合が悪いんですか? 救急車、呼びましょうか?」
念のために、また声をかけて様子をうかがってみる。すると、彼は少し笑ったような気がした。顔は見えないから勘違いかもしれないけど、どこか噛み合わないような違和感がある。その正体が何なのか、考えようとした時、
「――結構です。少しふらついただけですので」
不意に、彼は口を開いた。返ってきたのは、突っぱねるように酷くぶっきらぼうな声。まるで他人を遠ざけ、自分の殻に閉じこもろうとしているかのよう。だけど、その一方で彼の姿は、桜の木に縋っているようにも見えて、その矛盾の中に、私は答えを見つけたような気がした。
ああ、そうだ。傷付いているのは、身体じゃない。事情は人それぞれだけど、きっと彼もまた、嵐の中を生きているんだ。どうにもならない現実と、一人で必死に向き合いながら。
俯く彼の背に、ふと自分自身の姿が重なった。今日この場所に訪れて、この景色に出会っていなかったら、いつか私も彼と同じようになっていたのかもしれない。そう思うと、自分がここにいる意味が分かった気がした。
「……あの、良かったら、これどうぞ」
私は缶コーヒーを持っていることを思い出して、それを彼に差し出した。
別に、どんな物でも構わなかったんだ。ただ、手を差し伸べるきっかけにさえなれば、それでよかった。できることは何もないと分かっているけど、だからと言って何もしないのは嫌で、何となくでも伝えたかった。
――例えあなたが全てを拒絶しても、私はあなたを否定しない。