こんなみっともなく這いずっているのだって、何かを変えたくて足掻いているからじゃないか。苦しんでいるのだって、これが現実だと諦めることができないからじゃないか。希望と呼べるだけのものが見出せなくても、絶望と呼ぶにはまだまだ遠いんだ。
――僕は、ただ理由と意味が欲しかったんだよ。生きるということの。
死にたいんじゃなくて、ちゃんと生きたいんだ。それなら、どんなに辛くたって、まだ死ねるわけがないじゃないか。
それで何かが変わった訳じゃない。だけど、とりあえずまた、次の一年を生きてみるしかないんだって、どうしようもなく思い知った。そうやって、歩き続けるしかないんだよ。
「――はあ、明日から頑張ろう……」
そう思ったけど、いつの間にか、日付はもう変わっていた。
灰桜(はいざくら)の章
――春の風が遊んでいる。
夜の静けさの中を、囁きながら歌いながら、無邪気に駆け回っている。
全てを受け入れるように柔らかで、全てをすり抜けるように自由で、何色にも染まり、何者にも染まらない。
――春って不思議だ。
三月はライオンのようにやって来て、子羊のように去って行く。そんなことわざもある程に、気まぐれで移り気、変化に富んだ季節。
春の陽気と言うように、ポカポカと穏やかなイメージもあれば、春の嵐と言って、ゴウゴウと荒々しいイメージもある。一つに定まらないから、人によって抱く印象も様々。そしてそんな忙しない気候は、まるで人の世を表しているかのようでもある。
始まりと終わり。出会いと別れ。人間社会においても様々な変化が訪れる、区切りの季節。こちらに関しては、きっと嵐と呼ぶ方が相応しいんだろうな、なんて思う。陽気という言葉で表現できる程、現実は甘いものではないから。
こんな風に、つい感傷的になるのも、半分は季節のせいだ。そしてもう半分の原因は、今日という日にある。私がこの世に生を受けた、今日という日に。
あれ、今日で何歳になるんだっけ? 一瞬考えてしまった。大事なことだけど、忙しさの余り、いつしか気にする余裕も失っていた。
別に、忙しいということ自体に不満があるわけじゃない。目指すものがあるなら、そのために努力をするのは当然のことだ。ただ、そこに結果が伴わないなら、全てを無駄にしてしまっているようで、選択を間違えているのではないかと怖くなる。
信じるべきか、諦めるべきか。心の中にも嵐はあって、行き先を見失いかけた時、ふと頭を過る。
――変われないことと変わってしまうこと、どちらがより悲しいことなんだろう。
子供の頃には無邪気に喜んでいた誕生日も、限られた時間を意識するようになってから、重圧ばかり覚えるようになった。だからこそ、どこまでも自由奔放な春の風に酷く焦がれてしまうんだ。妬ましく思える程に……。
不意に風が吹き抜けて、数枚の桜の花びらが目の前を横切って行った。風上へ視線を向けると、自宅近所の公園の入り口。久しく立ち寄っていないな、と思いながら、気付けば花びらを辿るように、自然と足が動いていた。
――私は、何をしているんだろう。
衝動的な寄り道。早く帰って、明日に備えないといけないのに。
さまようように歩き続けると、白とピンクの雲のような花々が、街灯の明かりに浮かんでいるのが見えた。それを抱える大きな木の全体像が、ようやくはっきりと認識できる辺りまで来た時、私はふと足を止めた。
桜の木を見上げるように、そのそばに誰かが立っている。青年のようだった。
何だか、不思議な人。花吹雪に包まれながら、ただぼうっと桜を眺めている。その背中はどこか寂しげで、儚げで、そのまま風景の中に、とけて消えてしまいそうにも見えた。