その表情は、なぜか嬉しそうだった。付け髭が風で靡いている。
「馬鹿なこと言わないでやめなさい!」
彼は赤い帽子を取り、一階の地面に投げ捨てた。
「これが『万有引力の法則』――そして、これから俺は……」
腕につけた装置をつかみ、ぎこちなく笑った。よく見ると手が震えている。
『二〇二〇年まで残り三十秒前! 二十九、二十八……』
テレビから声が聞こえ、カウントダウンが始まった。
「歴史に名を残した偉大な人達は、最初はみんなに馬鹿にされたんだ! でも彼らは自分を信じていた! だから自分でやり遂げることができたんだ!」
彼の声は雨雲を消し去る勢いだった。
「でもさ、家族だけは信じてあげてよ! 家族の一人や二人、馬鹿な挑戦をしたっていいじゃないか! それを否定したら終わりだよ! そこで彼らの人生は【停止】してしまうんだ!」
その刹那、風の流れが止まったように感じた。
――りっちゃん そんなことは《やめなさい》
母の声だ 父も同じことを言っていた
この言葉 この言い方が 私の人生を止まらせた
私のやりたかった情熱が あのとき 止まってしまったんだ
「私は……信じる」うまく声が出ない。「私は、弱くて怖くてやりたいことができなかった……それを言い訳に、夫に強く当たってしまったの」
重たい涙が頬を流れた。
「ごめんなさい……信じてあげなくて、ごめんね」
私は拳を握りしめた。「失敗したって成功したって私は大切な人を応援する。私はもう後悔なんてしたくない。自分で明るい未来を作っていきたいの!」
どんよりとした雨雲が、一気に動き出した気がした。
落雷の音が鳴り響き、私は危険を察知した。
「そこは危険だわ……お願いだから戻ってきて!」
彼は右腕を空高く突き上げた。
「大丈夫――これから《家に戻るんだ》」
彼は、にっこり笑うと付け髭がポロリと下に落ちた。
その顔を見て私は驚愕した。テレビの歓声が私の鼓膜を貫き、脳内で反響する。『新年まで五秒前! 四、三、二、一……!』
彼は、夫に似ていたが《三太郎ではなかったのだ》――。
あなたは、誰……?
背筋に衝撃が走る。彼の笑った顔が《私にも〝そっくり〟だった》――。
「あなたの家族になれてよかった」
彼が微笑んだ瞬間――何かが爆破したような轟音と共に、雷が落下した。「きゃあっ!」私は衝撃で後ろへ倒れ込む。目の前が真っ暗になった。
目を開けると美結と玲美の顔があった。「おかあさん」と私の体を揺すっている。意識朦朧と起き上がる。外は静寂に包まれ、青白く変わりつつあった。
『A HAPPY NEW YEAR!』
寝起きの娘がつけたテレビから声がした。私は気絶していたのだろうか。
心臓がまだ高鳴っているのは『落雷』のせいじゃない。さっきまで目の前にいた『彼』が忽然と姿を消したのだ。黒ずんだベランダに焼け焦げた赤い服と手袋があった。彼の体だけが消えた――これは夢じゃない。
まさに雷に打たれたような衝撃だった。
私はベランダから一階を見下ろすが誰もいない。玄関のドアも確認するが鍵とU字型ロックが内側から閉まっていた。
すると『ピンポーン』と音が聞こえ、玄関の外から「おーい」と声がする。聞き慣れた声だった。鍵を外してドアを開けると、そこには『夫』がいた。
「……おう、立子。起きてたのか」
彼だった――三太郎だ。今度は間違いなく〝本物〟である。
帰ってきた。こんな寒い明け方に。「どういうこと」と私は訊く。
「あれは魔法なの……? マジックショーなんでしょー?」
私の意味不明な言葉に、夫は「はあ?」と素っ頓狂な声を出す。
彼、曰く『研究室で後輩と会って今まで実験に没頭していた』そうだ。
彼には完璧なアリバイと証言者が存在した。ということは……。