【ARUHIアワード12月期優秀作品】『味噌と僕、とある日の良き思い出』羽呉

 電機店の仕事と言うのは、思っていたより面倒だった。まず店舗の規模が大きい。ビル三階分の面積を余すことなく使い、所狭しと家電を売っている。さすが東京と思うが、新宿では数軒のビルが一つの店という事例もあるから恐ろしい。話を戻せば、僕はそのビル三層分の棚の全ての位置関係を把握し、店員でも迷うような迷路に囚われたお客様を案内するスキルを求められた。それでいて、自分の担当範囲ではない家電について、呪文のような質問を浴びせられたりするから小売店は大変である。救いは上司が美人ということだったが、彼女は既婚者であった。
 そんな日々が三日続き、おまけに不機嫌なお客様に説教を受けるなどした僕は、早くも精神が立ち行かなくなりそうであった。話し掛けられると思うたびに、心臓が跳ねる。
 そこで僕は、ここから逃げてしまおうと考えた。品出しをするついでに、なるべく人が居ない一画へ向かおうと思いついたのだ。客入りが少ない方へ、出来るだけ人と目を合わせないように、僕は移動した。商品の棚と向かい合い、なるべくゆっくりと商品をハンガーに掛ける。しばらくこうしていれば、十分、いや五分は時間を潰せるだろう。そう思っていた矢先。
「あの」
 そこで僕は声を掛けられたのだった。それだけで胃がキリキリしたが、研修で叩き込まれた笑顔を呼び起こし、僕は横を向いた。六十代ほどに見える、やや若い外見のお婆さんがそこに居た。
「すいませんね、これを探してまして」
 そう言って、白いメモ用紙を一枚差し出してくる。大きく太いボールペン字で書かれていたのは、プリンターに使うインクの型番だった。二カ月前まで、ただの英語と数字の組み合わせに見えたものが、今は『最近の売れ筋よりやや古い、三色セットのインクだ』と分かる。何となくその事実に達成感を覚えながら、僕はお婆さんを棚に案内した。電機店にはあまり慣れていないのか、これだけで分かるんですか、とお婆さんは驚いていた。
 単純だが、そう言われると自然と高揚してしまうものだ。棚の前で、僕は純正品のインクとサードパーティ製のインクについて説明しながら、その舞い上がっている自分に気付いた。お婆さんは実に話しやすい相槌を打ってくれながら、どうしましょうかね、と悩んでいる。プリンターの使用状況から、純正品のメリットはあまり無いと感じたので、僕はそれを伝えた。お婆さんは朗らかに笑い、
「では、それにします」
 そう言って、商品を手に取ってくれた。その後、お婆さんをレジまで案内し終えると、ちょうど昼の休憩時間に差し掛かった。僕はエプロンを外し、コンビニの幕ノ内弁当を食べながら、これがやり甲斐か、とひしひしと感じたのだった。
 午後になり、僕は残っていた品出しを順調に終わらせて、何事もなく定時に帰宅することが出来た。その間、数名のお客様に話し掛けられ、こちらから話し掛けて案内することも出来た。それもこれも、あのお婆さんが居てくれたからだと痛感する。あのまま棚とにらめっこを続ければ、僕は精神的に危ないところだった。続けていればいい事もある。
 帰り道にスーパーに寄った。上向いた気分と、明日は休日だという安堵から、何か気の利いたものを食べたいと思ったのだ。食品の通路をぶらついている間に、僕は味噌鍋への憧れを思い出した。しかし鍋は嫌というほど食べたので、味噌味の何かにしようと思い付く。そうして味噌のコーナーに辿り着いた時、僕は目を疑った。あのお婆さんがそこに居たからだ。棚から一つ味噌を取り、買い物かごに入れている。
「あの」
 僕は思わず声を掛けていた。ふと、その横顔が不思議そうな表情を浮かべた時、僕は咄嗟におかしな行動を取ってしまったと後悔した。しかし、振り向いたお婆さんはあの快い笑顔で、ああ、と返事をしてくれたのだった。
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