【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『新しい原点』陸 曦

「木村さん!」

可愛らしいスーツケースを持った人影は向こうの階段を降りて、こっちに向かってきた。それは水色のスーツケースで、まるで鴨川の透き通った水に映る空色に染められたみたい。
私はマスクを直した。マスクがあれば、私の心は読まれずに助かる。
「木村さん、お久しぶりです! お元気ですか?」

先週まで9000キロ以上遠い場所にいた永野さんは、今は目の前の500ミリ近くまで戻って来た。

「お久しぶりです!時間の経つは早いですね」
「帰る直前にパリのオペラ座で、観劇しましたよ! 劇場内部の豪華なインテリアや役者さんの華麗な服装、圧巻のパフォーマンスに感動しました!」
「演劇はお好きですね。去年の学園祭で、永野さんの演技は素晴らしかったですよ!」
「ありがとうございます! 主人公の名前はまさみで、私の名前と同じでした。脚本を書くサークルの仲間に頼んで、そうしてくれました」
「そうなんですか?それで、まるでその物語は永野さんのことを描いていたと、そのとき私は思いました」
「主人公は最初に新潟の実家を離れて京都に来たとき、迷いながらも新しい生活で頑張る気持ちは、私と同じでした。私はその気持ちを木村さんに伝えたく、そういう役を演じました……」

永野さんは突然声のトーンを上げた。
「新しい生活の迷いは希望と同じく、美しいものです。迷ったら、新しい原点で再出発すればいい!」

「そのセリフを、木村さんに伝えたかったのです。新しい原点で頑張りましょう!」
「新しい原点?」
「いまから再出発しましょう!」

わたしの心は一瞬、何かに打たれた。そして、はずかしい。この間は永野さんのことが夢中になって、いろいろ忘れてしまった。落ち着く京都の街並みに、新しい生活に新しい自分を見つけて、すべてをリセットしようとしていた。大学でいろいろ学ぼうとしていた。しかし、鴨川にいる時間は大学にいる時間よりはるかに多い。
私は、永野さんがフランス留学直前の学園祭で自分に伝えたかったことに気づかなかった。
京都に来る前に、私は東京で自分を失っていた。週末はネオンのまちで、職場でのつらさを忘れるために記憶をなくすほど飲んでいた。朝焼けを見ながら、始発を待っていた。そして、山手線の電車の中で何時間も寝ていた。繰り返しのそのような日々だった。
永野さんは私の過去について一度も聞いていなかったが、私を励ましてくれた。

永野さんがフランスへ旅立った後は、大学は対面授業となったとはいえ、私は結局クラスメイトとの年の差でいろいろ悩んでいて、あんまり授業に出れなかった。この鴨川の近辺に一人でぼーとしていた。鴨川にいる時間の半分は、東京のネオンのまちにいた時間と同じだと気付いた。

再び見る永野さんの顔は、鴨川に映る夕日の光を浴びた。新しい春の桜の花びらの淡い色も、その夕日の光に溶けた。すでに2回生になったが、私の2回目の大学生活はいまから本当に始まるような気がする。
いまのここは私の新しい原点だ。ここでこれからも永野さんとたくさん語り合え、そして、きっと幸せな場所にたどり着くんだ。

「よし!出発進行!」
「お願いします!」

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