【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『ハミングの悲しさを伝えたかった』ゼロの紙

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

電車の扉がいつもよりも長く開く。
開くたびに潮の香りがする。身体を支えるのがやっとのカーブにさしかかると、突然車窓から海が見えた。
閉じ込められていたものが開かれていくこの刹那がたまらなく好きだなって思っていると。誰かの口元からこぼれてきた歌のような調べが聞こえてきた。
 いつしか物悲しいメロディとなって車両に響き渡っていた。
 ハミングのカナシサを誰かに伝えたかった。
そのメロディが次の駅の扉が開いたころには、消えていた。
 メロディの代わりに近くの女子高校生たちの部活帰りらしい生徒たちがわっと増殖したかのように乗り込んでくる。

 車内の床をでこぼこになった空の缶コーヒーがジグザクに転がる。
 カンのボディが妙にいろっぽく凹んでるやつだ。
 その転がっていたカンが座っている誰かの足元に収まって動かなくなった。

 隣の車両からこっちに移動してきたばかりの男の人が俺の斜め前の吊革につかまったのがわかった。。
 見覚えのあるジーンズの膝小僧の破れ方だなって思ってゆっくり顔をあげてみたら、ジョウさんだった。

 仰ぐ形でジョウさんを見る。
 ジョウさん。
 呼ばれてちょっと怪訝な顔をしたジョウさんは俺に気づいて表情がぱっと明るくなった。

 翔ちゃん。なに、ここにずっと乗ってたの?
 吊革をふたつ同時に持ってのぞくように話しかけてくる。
 ジョウさんは相変わらずカッコよかった。
 俺が立とうとしたら、いいいいいい。俺そんなんまだじじぃじゃないからって笑って手で坐ってって形をつくってくれた。

 笑う時、目じりのしわが嘘をつけない人のように刻まれていた。
 こんな間近でジョウさんをみるのは久しぶりだった。

 親父が離婚するまでは、よくジョウさんが家を訪ねてくれていた。
 リビングには夜遅くまでみんなの笑い声が聞こえていて。
 子供はもう寝なさいと追い払われるのが常だったけど。
 俺はなにかと子供みたいな彼らのはしゃぐ声を子守歌にしながら眠るのが好きだった。
 むしょうに落ち着いたから。

 翔ちゃんバイト帰り?
 俺は老舗デパートのデパ地下のサラダショップでバイトしていた。
 そのことを覚えてくれていたことがちょっとうれしかった。

 そんな感じ、で、ジョウさんは?
 今日はさ、店休みだったんだけど店長会議があってね。絞られたから結構疲れてる。
 こういう時は音楽でも聴いてさって思ってたんだけど、馴染んでたライブハウスがしまっててさ、仕方なく直帰しようってところ。
 その時ジョウさんの眼がちょっとぎらついて、俺をうかがうから。
 なに? って眼で合図した。

 翔ちゃん今からちょと恥ずかしいことするけど。怒らない? 不意に他人のフリしない?
 って笑った。
 他人のフリっていうジョウさんの言葉に反応していた。
 父親が離婚してからは、ジョウさんをどこか他人じゃないような気持ちで見ていたから。

 そんなことを思っていたらジョウさんが、翔ちゃんちょっと行って営業してくるって言ったかと思うと、さっきの女子高校生の輪の中にジョウさんが歩いて入ってゆくところだった。
 今まで話に夢中になっていた彼女たちがジョウさんに気づいて、その瞳がちょっとうるっと来ているのを俺は見逃さなかった。

 ジョウさんモテるんだよな。俺が無縁のものをたくさんジョウさんは持ってると思った。
 ジョウさんは彼女たちの髪のそばで、ジェスチャーをするたびに大きく頷く彼女たち。

 ジーンズのお尻のポケットからシルバーの美容院の名刺入れを取り出すと、彼女たちに1枚1枚それを配ってよろしくねって軽く会釈していた。

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