「どうも」
トイレットペーパーを手に取って、山田さんに背を向けた。久しぶりに顔を見られたのは嬉しかったが、店員さんとしては普通だった。トイレットペーパーだけを買いに来た男に愛想を振りまいても仕方がないけど。
「あ、あの」
ヤバい。気づかれたのか。藤井さんは山田さんになってしっかり大人になっている。方や、こちらは親の脛を齧りまくっている無職である。何と会話をすれば良いのだろう。
「はい?」
顔を見ないようにしないで振り返った。
「チラシどうぞ。割引券ついていますんで」
「…ありがとうございます」
俺はチラシを受け取り、店を去った。
「ただいま」
「お帰り」
母が一口コンロのキッチンで焼きそばを作っていた。
「引越し蕎麦ならぬ、引越し焼きそば」
つまんねー。おばさんギャグは勘弁して欲しい。でもソースの匂いで鼻がひくつくのが悔しい。
父は先ほどと同じ体勢でテレビを見続けていた。
焼きそばを三人で食べた後、各々が八畳の中で確保したスペースで、各々の時間を過ごし、あっという間に日が暮れ、両親は晩酌を始め、俺は晩御飯だけを食べた。
そして、ここで気がついた。
俺と両親の生活サイクルにはずれがある。
両親は9時には就寝をするが、俺は0時くらいまでは起きている。だが、このワンルームでの主軸は両親だから、俺もそれに合わせなくてはいけない。
仕方がない。
観念していると、父がいそいそと布団を敷き始めた。
三枚の布団が並んだ。
「川の字で寝るなんて久しぶりだな」
父は一番奥の布団に寝転んだ。
「おい、真ん中で寝るか?」
マジかよ。この年で川の字で寝るのは勘弁したい。だが、寝る場所はここしかない。
「端で寝るよ」
俺は手前の布団に入った。全然眠れる気がしない。
「あら、川の字」と言いながら母が俺を跨ぎ、真ん中の布団に入って電灯を消した。
しばらくすると二人から寝息が聞こえてきた。
すげえなと思い、上半身を静かに起こすと、部屋には薄いカーテンから街灯の明かりが漏れ届いていた。薄明かりの中で眠る両親を見た。久しぶりにマジマジと見る二人の顔には着実に年齢が重ねられていたのが分かった。
そうか、そうなんだよな。
俺は目を瞑った。
いつの間にか寝ていた。
また特に用事のない一日が始まり、それが繰り返されるうちに、八畳に三人でいる暮らしにも慣れ始めたが、ついにこのアパートで過ごす最終日となった。
もっと両親との距離を縮めたかったというような寂しさはなく、やっと自分一人の時間を持てるようになることが嬉しかった。
最終日ということで、ホットプレートでの焼肉となった。
「ホットプレートなんてうちにあったっけ?」
「前住んでいた人が残していったみたいなの」
「え? 他人のってこと? ちょっと」
「綺麗だよ。熱で殺菌もされるだろうし」
「いや、そういう問題じゃなくてさ」
「嫌なら食うな」
父の一言で俺は引き下がった。食うしかない。
「それじゃ、野菜から」
母が輪切りした玉ねぎをホットプレートに投入しようとした時、玄関が激しく叩かれた。
「何? お父さん、ちょっと見てきて」
父が立ち上がり、玄関に向かうと戸を開けた。
そこには俺と同じくらいの年齢の作業着姿の男が立っていた。そして、いきなり父に掴みかかって叫んだ。
「誰だ、てめえは!」
父は掴んできた男の腕を見事に捌いた。男はいつの間にか腹這いになっており、父がその腕をキメていた。
「痛い! 痛い!」
「痛いじゃない。誰だお前」
「ここの家のもんだ。加奈! 助けてくれ!」
そう言って男は顔を上げて母を見た。
「加奈?」
「いや、久美子」
「加奈―!」
男が泣き出したので、父は男を解放した。男は顔伏せたまま泣いている。
「おい、どうしたんだよ」
父の問いかけに男は答えない。
「おい!」
父が男の肩を掴み、強引に座らせた。これ以上、父が話を進めると危なそうなので、俺が間に入り、男の肩に手を添えた。