アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
「嫌なら自分でホテルとれば?」
そのお金はないことを分かっているにも関わらず、母は俺にそう告げた。だから、返す言葉が見当たらなかった。
「一週間くらい我慢しなさいよ。あんたが小さい頃は、同じ間取りに住んでいたんだから」「いや、俺もう三十五」
「そこから変わってないじゃない。食費も入れていないし」
防戦一方となっている原因は、実家のリフォームにある。
築二十八年が経ち、劣化が見られる我が家の台所、トイレ、風呂場をリフォームすることになった。その工期が一週間。その間、父の知り合いが持つアパートを仮住まいと両親が定めた。急遽、空きができたそうだ。そこまでは問題ない。その間取りがワンルームなのだ。つまり、両親と俺は、ずっと同じ部屋にずっといることになる。
父はすでにリタイアし、母は週に二日程事務のパートに出ている。そして、俺は気持ちが折れて仕事を辞め、この二年ほど無職で、遊ぶ金もないから、ほぼ家にいる。だから、本当の意味でずっと両親と顔を合わせる羽目になる。
これでは、自由な時間にネットやらゲームやら好きなことができやしないと母に訴えたが、一蹴された。
ネットカフェに泊まる資金はなく、一週間も泊めてくれる友人もいない。素人考えでリフォーム対象の箇所だけ工事が入るのだから、自室にいられるのではと思ったが、大工さんが使う道具や材料を入れるため、全体的にシートが敷かれて、とても寝られる状態でなくなるとのことだった。
無職のおじさん(俺)がいくら嫌がっても工事の日はやって来た。
この台所で作られた食事を何度口にしただろう、このトイレで何回用を足しただろう。二十八年間ともに過ごし、ずっとあると思っていた場所とお別れをするのは感慨深かった。
この台所で作られた最後の朝ごはんは、昨晩、冷蔵庫を空にすべく作られた豚汁だった。
そして、期間限定とは言え、ワンルームでの家族三人の暮らしが始まった。
八畳の部屋であった。以前の住人が残して行った家具がちらほら残っている。父は入室早々、普段着となり、柔道で鍛えた野太い指でテレビのリモコンを操り、寝転んでメジャーリーグの中継を見始めた。
母はトイレや台所を一通りチェックするとソファに座って、スマホでゲームを始めた。
俺は自分の居場所が定まらず、しばらく突っ立っていた。
「おい、座ったらどうだ?」
父が野球を見ながら言った。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「あ、ならドラッグストアでトイレットペーパー買ってきて」
「また三振だよ」
「分かった」
仮住まいは実家と少し離れたので、いつもと違うドラッグストアへと歩いた。
入り口に安売りのトイレットペーパーが積まれている。シングルとダブル。
はて、うちではどちらを使っていたか。
実家のトイレを思い浮かべる。床が水玉模様のトイレともお別れなのだ。
シングルも余計に巻けばダブルになるだろうから、6個入りのシングルを手に取ってレジに向かった。
レジには小柄な女性店員がいた。
「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちですか?」
尋ねられたので店員の顔を見た。中学の同級生の藤井さんだった。咄嗟に顔を逸らした。当時、結構可愛いよなと思っており、今もその可愛さは健在だった。
「いえ」
同級生の多くは、この土地を離れたのか、顔を合わせることはない。しかし、彼女はここにいたのだった。ネームプレートには『山田』と書かれていた。
トイレットペーパーを手に取り、レジにバーコードを読み込んだ。その手には結婚指輪が鈍く光っていた。
「398円です」
俺に気づいていないのだろうか。その方が良いけど。
使い古した長財布から千円を取り出し、差し出した。山田さんはそれを無言で受け取り、レジに投入。ジャラジャラと出た釣り銭が出てくる間、トイレットペーパーに会計済みシールを貼り付けた。そして、お釣りをレシートと共に俺に差し出した。