【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『あの日、思い描いた未来は』春野萌

目を閉じても頭の中に様々なことが浮かぶ。今日見かけた男性のこと。奈月が最近描いている絵のこと。シェアハウスを始めた時の、ちょっとだけ緊張感のあった日々のこと。サークル時代に、奈月と少しだけ真面目な話をしたこと。そうして最後にまた、不安な気持ちが込み上げた。
今の状況を解消する方法は1つしかないと分かっていた。もし失敗すれば、奈月との関係が終わってしまうことも。でも、きっと、今の関係だって永遠には続かない。
僕は布団から起き上がり電気をつけた。恐いけれど、やっぱり奈月との未来を実現したいという気持ちが勝った。
隣の部屋はまだ明るい。僕は人生最大の勇気を振り絞り、奈月の部屋をノックした。
「ちょっと話があるんだけどいい?」
奈月は少し驚きつつ、すぐに僕を部屋の中に招き入れた。「一瞬待って」と広げていた画材を片付け始める。僕は床にあったクッションを持て余しながら、心の中で言うべきことを反復した。
奈月が目の前に座る。大きく息を吸った。
「奈月、実はさ」
「先に私からいい?」
「え」
彼女が話を遮るのは珍しかった。今まで想像してきた悪い予感が一瞬で蘇って、ズキズキと胸が痛む。
「あのね、ずっと話さないといけないと思っていたんだけどね」
奈月は深刻そうに目を伏せた後、意を決したように顔を上げた。
「私、絵は続けるけど、頑張って働くから。だから、これからも一緒に住んでくれませんか」
 そう言っておずおずと一枚の紙を取り出して見せた。
「実は内緒でいくつか部屋を回っていたの。今のままじゃふみ君に迷惑をかけてしまうと思って」
 想定外の事態に僕は言葉を失った。それから今日見かけた男性が不動産屋の人であったのだと気付いて、胸のつかえがゆっくり下りていく。
「私、ふみ君に愛想をつかされそうで怖かった。だって中途半端なくせに自分勝手すぎるでしょ。だけどね、私はふみ君に背中を押してもらってようやく前へ進めるの。ふみ君には負担をかけるかもしれないけれど、そばにいてくれたら嬉しい」
奈月の声は震えていた。外の世界ではいつも強く見える彼女も、僕の前では弱い姿を見せてくれる。
僕はポケットに手を入れた。そこには、先ほど捨てたけれど諦めきれず拾った紙があった。それから、ずっと胸に秘めたままだった言葉を思い出す。
「それなら、僕と結婚しませんか」
奈月は何度かまばたきをした後、両手で顔を覆った。劇団がなくなると打ち明けたあの日だって、泣かなかったというのに。彼女もきっと色々思い悩んで今にたどり着いたはずだった。
奈月はシワクチャになった間取り図を丁寧に伸ばして「ありがとう」と呟く。その日、僕らは久しぶりにたくさんおしゃべりをして、お互いに未来への展望を語り合った。

***

「パパ。男の子ってチョコレートをもらったら嬉しい?」
 2月のある日、7歳になったばかりの娘が珍しく話しかけてきた。
「そうだね、嬉しいと思うよ」
「本当? 好きじゃない子からでも?」
 いつもならこちらから話しかけても一往復のやり取りで終わるのに、今日はえらく食い下がる。それほど明日のバレンタインは娘にとってビッグイベントであり、よほどの確信が必要なのだ。それならと、僕は背中を押すためにもう一度繰り返す。
「うん。好きじゃない子からでもきっと嬉しい」
「絶対?」
「うん。絶対」
「じゃあ信じる。嘘だったらチョコあげないからね!」
ほしい言葉を得て満足げに去る娘の姿を目で追いながら、そばにいる彼女へ話しかけた。
「慎重かつ引っ込み思案な性格は、確実に僕に似たよね」
「そうかな?」
「そうだよ。それで、その割にちゃっかり行動に移せる辺りが奈月にそっくり」
「えー、逆だと思うけどなぁ」
壁には奈月が描いた大きな絵が立てかけてある。僕は、想像した以上の今があることが嬉しくて、笑みをこぼした。
「パパもママも似たもの同士だと思うよ!」
遠くで娘の声がする。僕は奈月と顔を見合わせ、二人同時に吹き出したのだった。

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