アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
「ふみ君。私、二度目の大学生になろうと思うの」
外から戻った奈月は、鼻と頬を真っ赤にさせてコートも脱がずにそう告げた。二月の冷え込んだ日だった。
「それはまた急展開」
「うん。運命の出会いがあったの」
瞳をめいっぱい開けて話す彼女を見て、これはもう揺るがないなと思った。
奈月が通信制の美大に興味を持っていたことは知っていた。取り寄せたパンフレットを見つめては、「やっぱ厳しいよね」と嘆息する場面を何度も見ていたからだ。最近パタリと話さなくなったから、諦めたものだとばかり思っていた。
「偶然通りがかったビルで説明会をやっていたの。合同でいろんな大学が来ててね、軽い気持ちで入ったんだ」
僕は相槌を打ちながら彼女にコートを脱ぐよう促す。受け取ったものを玄関にこじんまりあるハンガーラックへ吊るすと、かすかに前傾した。安物なのでバランスに気をつけないとすぐに倒れてしまうのだ。
「担当の人がね、興味があるなら一年だけやってみたらいいじゃないと言ってくれたの。卒業を目指すことは立派だけど、大変だったら途中で辞めてもいいんだよって。目から鱗だった」
奈月はもらってきた資料を床に所狭しと並べ、いかにその大学が魅力的かを力説した。それから金銭面の話や今後のバイトについて、まるで前から決めていたみたいにすらすらと口にする。
全て話し終えると、小さく息を吐いてから「ふみ君、どう思う?」と急にか細い声で聞いた。
「いいと思う。応援するよ」
ざわつく心に気付かないふりをして自然に答えてみせる。奈月は安心したように笑って「頑張るね」と意気込んでから自室へ入った。それを見届けて僕も手前の部屋へ戻る。
彼女はいつの間に立ち上がったのだろう。
二年前の今頃、奈月は絶望の淵にいたはずだった。一言発するだけでも泣き出しそうなほどの脆さだったのに、まるでその面影がない。忘れていたけれど、奈月は一人で決断して前へ進んでいける人なのだ。
心の底でじわじわと広がる動揺は寂しさからだろうか、それとも嫉妬心だろうか。
この手の不安は考えないことが一番だ。僕は壁の向こうにいる彼女の明るい表情を思い浮かべ、良いことなのだと言い聞かせた。
僕と奈月は大学の演劇サークルの同期だった。
入部したての頃、裏方の僕とキャストの奈月はあまり接点がなかったけれど、無茶苦茶な練習スケジュールに参加するうちに自然と打ち解けていった。苦楽を共にした僕らは、四年で家族と親友の間くらいの仲になっていたと思う。
奈月の実力は部の中でも群を抜いていた。よく通る声に凛々しい表情はとても華やかで舞台のどこにいても目を引いたし、初回の稽古までに全てのセリフを暗記してくるようなストイックさもあった。皆口にはしなかったけれど、自分たちとは次元が違うのだと感じていたと思う。
卒業後、僕は一般企業に就職し、奈月は小さな劇団の研究生になった。僕は彼女の公演を欠かさず観に行った。チケットノルマに協力するために同僚を無理やり連れていく時もあった。奈月はファンがつくような存在になっても、差し入れを持って赴けば「ふみ君!」と一番に手を振ってくれた。遠い世界の存在になってしまったけれど、変わらず笑顔を向けてくれるのはやっぱり嬉しかった。
順風満帆に見えた奈月から連絡が入ったのは、紅葉の季節が終わりかけた、秋のある日だった。
『ふみ君、聞いてほしいことがあるんだけど』
遠慮がちな文面から良いことではないのだと思った。案の定、駅前のカフェで会った時の彼女の表情は、見たことのないくらい蒼白だった。
「あのね、うちの劇団、来月でなくなっちゃうの」
奈月はコーヒーカップの縁から目を離さずに言葉を続ける。
「本当はね、最近すごく苦しかった。お芝居が好きで、ただ続けられたらいいという気持ちだけでここまで来たけれど、このままでいいのかなって。自分がどうなりたいのか先が見えないの。お芝居をやっている時は忘れられたのに、それすらなくなってしまう」
僕は口を挟まず、奈月の乾いた唇が開いたり閉じたりするのをじっと見つめていた。
「ねぇ、ふみ君。私、分からなくなっちゃった。これからどうやって生きていこう」