「とりあえずゆっくり休もうよ。それで働けそうだったら少し働いて、貯金が貯まる頃には気持ちが変わるかもしれないよ」
四国の実家へ戻ろうとしていた彼女にシェアハウスを提案したのは、完全に僕のエゴだった。ここで奈月と別れればもう二度と会えない気がしたのだ。
ちょうど僕の住んでいたアパートで間取りの広い部屋が空いたこともあって、僕たちは2DKの部屋で一緒に暮らし始めた。僕が余分に払うと言っても、奈月は頑なに折半を主張し、一度も滞ることなくきっちり払い続けている。奈月は決めたことを愚直に守り続ける性格なのだ。
そんな彼女だからこそ今回の決意も強固だった。話のあった翌日には願書を記入し、彼女の全財産の三分の一にあたる三十万を入金、二週間後には履修登録の紙が届いてシラバスを前にうなっているという、驚異の行動力を発揮した。
「ふみ君。私、朝型の女になろうと思うの」
「その心は?」
「朝働いたら明るい時間に帰れるでしょ。そのあと夜まで勉強するの。完璧じゃない?」
宣言通りモーニングのあるカフェで働き出した奈月は、毎朝五時に起床し六時には家を出る。これまでは、僕の方が早く起きて見送られる生活だったのに、完全に逆転してしまった。
奈月は課題を進めるために、図書館や美術館へ出かけるようになった。画材屋さんで何やら道具やキャンバスを買い込んで来る日もある。殺風景だった彼女の部屋は徐々に雑然としていった。
僕が油絵具のツンとした匂いに慣れてきた頃、奈月は初めて一枚の絵を完成させた。その時きっと彼女よりも僕の方が感動していたと思う。奈月の絵は光が溢れていて、とても美しかったのだ。
感想を伝えると、彼女は少し恥ずかしそうに「ありがとう」とはにかんで、「いつかもっと大きな絵を描くのが夢なの」と言った。
演劇に打ち込む彼女と同様に、絵の世界にのめり込む彼女も魅力的だった。
まずは一年と言っていた大学はためらうことなく二年目へ進んだ。二十号だったキャンバスは五十号サイズまで大きくなった。画材や習作はもはや彼女の部屋には収まらず、玄関やキッチンまで侵食している。
奈月のキャンバスに埋もれて用無しになったハンガーラックを目に留めながら、僕は一抹の不安を覚えるようになった。それは、いつか奈月がこの家を出ていってしまうのではないか、という予感だった。エネルギーを取り戻した彼女にとってこの家はあまりにも窮屈過ぎた。
一度考えると、必然的な未来に思えた。もうすぐ二度目の契約更新がやってくる。決定的なことを切り出される前に、何かしらの手を打たなくてはならない。
そうして僕は、奈月に内緒で新しい物件を探すようになった。「絵がのびのび描ける家」で彼女の気を引いて、僕の元に残ってもらおうと考えたのだ。
「どんな家を探されてますか?」
「絵を描く子がいるんです。天井が高くて、ゆったりした間取りがいいです」
僕は漠然とした不安から逃れるように、いくつかの不動産屋を回って、奈月との新しい生活に保険をかけた。それはあまりにも身勝手で、到底奈月に自分から話す勇気もなかった。
ところが二週間が経った頃、半ば強引に勧められた内見で、臆病な気持ちを吹き飛ばしてしまうほどの家と出会う。リビングの大きな窓が特徴的で、部屋中が光で溢れる空間が奈月にピッタリだと思った。
この家ならきっと彼女も気に入るはずだと、気持ちが一気に高揚した。その勢いのまま帰路に着き、ついに全てを打ち明けようと決意した矢先だった。
暗がりの中で、駅のロータリーに停まった車から降りる奈月を見かけた。運転席に向かって彼女が頭を下げると車が発車する。すれ違いざまに見えたのは、同年代の男性だった。
冷水を浴びせられたような気分だった。僕は帰宅すると、彼女に見せようと思っていた間取りのコピーをゴミ箱に捨てた。
隣の部屋で奈月が作業をする音が聞こえる。僕は彼女の就寝を待たずに明かりを消した。一刻も早く眠ってしまいたかった。