「手際がいいのね。普段からお料理するの?」
「うん、俺一人暮らしだから。毎日自炊してるよ」
「毎日? まぁ、えらい」
「ふふん、そうでしょ」
私の素直な感想に、維新君は手を止めず得意げに胸を張る。
「若いのにしっかりしてるのね。ご両親の教育の賜物かしら」
「逆だよ。両親は俺に興味がない。だから俺は家を出て、一人で生きるって決めたんだ」
「そ……そうなの?」
怒りや寂しさといった感情を見せることなく淡々と紡がれる言葉に、私は何を言えばいいかわからなかった。ただ包丁とまな板がぶつかる乾いた音だけが、鼓膜を揺らしている。
玉ねぎを切り終えると維新君は、ふうと息をついた。
「でもね、一人で生きていくには大変なことが多いってわかったからさ。少しでもさっちゃんの支えになりたいんだ」
「そう、ありがとう」
結局気の利いたことを言えず、そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。
「ごちそうさまでした」
昼食の親子丼をきれいに平らげると、維新君はおもむろに立ち上がった。
「俺、食材の買い出ししてくるね」
「そう? じゃあ私も一緒に行くわ」
立ちあがろうとすると、「大丈夫だよ」と止められた。
「こういう力仕事は俺に任せてよ」
手早く準備をして、維新君は家を出て行く。その後ろ姿を見送っていた時、ふと大事なことに気がついた。
「そうだわ、お金……」
お金を渡すのをすっかり忘れていた。慌てて財布を掴んで外に出るが、通りに人影はない。代わりに向かいに住む太田さんが、掃き掃除の手を止めてこちらを見る。
「あら藤戸さん、久しぶり」
「あぁ、どうも」
太田さんは私を頭のてっぺんからつま先までをじっと見て、眉を顰めた。
「少し痩せたんじゃない? ご飯はちゃんと食べてるの?」
「はぁ、それなりに」
「家の中にばかりいると、身体にも心にも悪いわよ。まぁでも、お孫さん来てくれてるし安心ね」
「え? いや……孫は来てませんけど」
維新君が家から出て行ったので、孫と勘違いしているのだろう。私の反応に太田さんは怪訝な顔をする。
「何言ってんのよ。あなたの孫でしょ、維新君。四十九日の法要が済んでから、毎日来てくれてるじゃない」
「毎日……? 彼とは今日、初めて会ったのだけど」
「やだ、見間違えるわけないわよ。今どきだけど、顔はあなたの旦那さんに似てるもの。昔はしんちゃん、しんちゃんって可愛がってたあの子がいつの間にか立派になって。時が経つのは早いわ」
「『しんちゃん』」
その響きには、覚えがあった。
『さっちゃん、ゆきじい。俺、家を出るよ』
「ああ、何てこと」
――私は実の孫を認識できていなかったのか。
「これから出かけるんでしょう?引き止めてごめんなさいね」
足がふらつく。それ以上のことを思い出そうと思っても、頭に靄がかかっているかのように思い出せない。
このまま私は何もかもを忘れて、大切な人のことも、自分のことさえもわからなくなってしまうの?
最愛の人を亡くしてから、もう失うものは何もないと思っていた。だけど、違う。私は自分を失いかけている。時間が経つたびに輪郭がぼやけて、形を失っていく。
そしていつの日か、私は。
気づくと見知らぬ場所にいた。日はすっかり暮れ、辺りは真っ暗だ。どこを歩いているのかわからない。足が痛い。ひどく疲れた。
鉛のように重たい感情が、胸のあたりにつかえている。何か嫌なことがあったはずだった。でもそれが何なのか、わからなくなってしまった。何なのかわからないから、どうすることもできずにいる。
ただこの足を止めてはいけない気がして、必死に歩き続けていたがもう限界だった。急ぐ気持ちとは裏腹に、足から力が抜けて崩れるようにその場にへたりこむ。
「――誰、か」
掠れた声はほとんど吐息だった。それは、誰にも届くはずのない音で。