「東京」
「東京か、いいなあ。東京のどこ?」
「墨田区よ。スカイツリーのそばに住んでいたの。ずっとそこにいたかった」
「そりゃそうだ。こんな辺鄙なところ住みたくないよな」
「あら、空気だけはいいみたい」
さゆりは、深呼吸する。
「ここを曲がったら、池だよ」
少年とさゆりは、池のほとりに腰を下ろした。池には水鳥が遊んでいる。時折、鳥のさえずりが聞こえる。
「昨日はコンサートの帰りだったんだ。頭の中に音楽が響いていたんだ」
「わかる気がする」
「君も何か楽器やるの?」
「ううん、私は、これ」
さゆりは立ち上がり、バレエの手振りをする。
「へえー、バレエをやるんだ」
「見たい?」
「見たい」
「見せてあげない」
「けちだなあ」
「だって、音楽がないもの」
少年は、ピアノを弾くしぐさをしながら、メロディを口ずさんだ。さゆりも少年のメロディにあわせてハミングする。目と目を合わせる二人。さゆりは、立ち上がり、靴を脱ぎはだしになると、軽やかに踊りだす。木漏れ日の中で踊るさゆりは、妖精のように美しい。さゆりが踊り終わると、少年が拍手をした。さゆりは両手を広げ、足を一歩前に出し膝を折り曲げ、優雅なお辞儀をした。,
「すごいや。君の踊り」
「そう?」
「マジ、よかったよ。音楽が聞こえた」
「あー、それ、さっき私が言ったこと」
「えー、ああ」
さゆりと少年は、微笑みを交わす。
「ありがとう。誉めてくれて。私はバレリーナになりたいの」
「おれは指揮者」
「ピアニストじゃないの?」
「指揮者は音のハーモニーを作り出すんだ。自分の世界を音で表現したいんだ」
さゆりは、少年の顔を見ながら、黙って聞いている。
「音学の専門学校に行きたいけど、親が反対している」
「どうして?」
「音楽では飯は食えないって。親に言われなくても一部の人間しか成功しないってわかってるよ。でも、チャレンジしないで諦めるなんてナンセンスだよ。おれの人生だっつの」
「親がいるだけいい。私なんか、突然、目の前から両親が消えちゃったんだから」
少年は、草の上に仰向けに寝転んんだ。さゆりも真似して草の上に寝転ぶ。青い空が見える。
「こうしているとさあ、世界は広いって気がしない?」
「しない。不安でいっぱいでお先真っ暗な気分よ」
「俺、つらい時は、いつもここでこうやって空を見るんだ。君の親、蒸発しちゃったの?」
「もっと最悪。交通事故で二人とも即死」
さゆりの目から涙がつーっと零れ落ちた。手で涙をぬぐう。
「君は親戚に引き取られたんだ」
「そういうこと」
「今すぐ帰らなくちゃ。君はここで生きるしかないよ。大人になって自由にできる日まで」
「ここで生き抜くしかないないのか」
「困ったことがあったら、いつでも相談しろよ。力になるから。一緒にハミングした仲だ」
少年は、がばっと起き上がる。
「送っていくよ。今帰れば、朝の散歩ですむよ」
「そうね」
さゆりも、立ち上がり、スカートの草を払う。
「名前、教えて」
「糸田輝。中三だよ」
「谷川さゆり。昨日からここの住人。宮本家の居候。中二よ」
さゆりと糸田は、並んで歩きだす。
「ちょっとここで待ってて。ここ俺のうち」
糸田は、家に戻り自転車を持ってきた。
「後ろに乗れよ。この方が早い」
さゆりは、自転車の後ろに乗る。膝の上にボストンバックを乗せて。
「この道は未来につながっているんだ。今日の行動が明日を作るんだ」
糸田と話をしているうちに、さゆりの心は少しずつほどけてゆく。
「ここでいい。もうそこだから。道に迷うこともないわ」
さゆりは、ボストンバックを抱えて自転車から降りた。
「ねえ、また、散歩しない?」
「うん、散歩しよう」
さゆりは新しく自分の家になる宮本家まで走っていく。
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