【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『Feel』遠藤倉豆

 昌史はスマホを手にすると、見積り依頼サイトを開いた。作業内容不要品整理1LDK全部で依頼すると、あっという間に5社ほどの見積りが集まった。4トントラックに積み放題で10万円ほど。物を棄てるだけにしてはなかなかの金額だが、もはやそのぐらい屁でもなかった。どうせなら別途作業も依頼できるよう人も大目の三人を頼むことにし、作業日は2週間後に決まった。
 しかし昌史はすぐにあることに気づいた。全てを新しくするには、新しい住まいが必要なのである。ここが片付くのは2週間後、ということはその前には新居を見つけていなくてはならないのだった。
 全てを新しくするのだから、新築がよかった。しかし家賃というものがあるから少し無理っぽい。駅に近く、それなりに新しく、やっぱり広くと不動産物件サイトでやっているうちに、賃料はうなぎ登りし、賃料で絞るとそんな物件はありませんと言われてしまう。
 ああ、もう面倒くさい! そう叫びたくなった瞬間だった。こうやって条件で選ぶからいけないのではないか――。そう昌史は思った。実家にあった古いビデオ、燃えよドラゴンのブルース・リーが言っていたではないか。Don't think! Feel.だと。あの女と出会ったのも、マッチングアプリに条件ポチポチした結果だ。この住まいだってそうだ。駅から徒歩いくら、宅配ポスト付き、各戸毎駐車場あり、オートロックに南向き角部屋だなどと、あれほどこだわった条件が、どれほどの幸せをもたらしてくれたというのだろう。いま独りでこうしている結果を見れば、それは明らかじゃないか。
 昌史は立ち上がった。あたーっとブルース・リーっぽい見得を切ったあと、外出着に着替え外に出た。
 駅に向かいFeel Feel Feelと心の中でつぶやきながら歩く。残念、ここはちょっと嫌という物件はあっても、心惹かれる建物はない。
 駅に着いた。会社方向に向かう各駅停車に乗る。Feel Feel Feelと念じながら窓外を眺める。途中止まる駅ごとに、Don't think! Feel.と心につぶやくが、中々心は反応してくれなかった。
 少しばかりの焦りを胸に、何気なく車内を見まわす。
 Felt!
 昌史は叫びそうになった。これでも英語はそれなりなのだ。Feelの過去形はFeltだ。俺は間違わなかったぞと、アゴを突き出す昌史の目を捉えて放さないのは、駅でもなく、景色でもなく、ビルでもなく、一人の女性だった。
 いつからそこにいるのかはわからないが、妙齢の女性が吊り輪を掴んで立っている。
 女性は本を読んでいる。後ろ髪をバレッタで無造作に留めていて、眼鏡をかけていて、変な英語が書かれたTシャツにジーンズという姿は、清潔ではあったがほとんど質素とも言えた。しかしその楽しそうに本を読む姿はとても可憐だった。
 昌史はひたすら女性に視線を送るが、彼女はこれっぽちも気づかない。よほど本が面白いのか、ときおり白い歯を見せたりしている。
 アナウンスが入る。電車が昌史の会社がある駅に着こうとしている。しかし女性は顔も上げずに本のページをめくった。そのときだった。本の背表紙にT図書館蔵のスタンプが見えた。
 行ったことはないが、Tを昌史は知っていた。今住んでいる町よりもう少し先のベッドタウン的な街だ。増える通勤時間を思うと選択肢から外れるはずだが、逆にそんな条件取ったらどうなるのかと昌史は考える。面白そうじゃないか。
 女性を尻目に次の駅で降りた。普段の朝は通勤客でくそ混雑しているくせに、休日のこの時間はガラガラのホームを歩き、下り線のホームに立った。スマホでT図書館を検索する。T駅からは徒歩25分とあった。
 やってきた下り列車に乗り込む。己の行為を子どもじみてるとも感じたが、その一方で、昌史はひどく楽しくもあった。
 列車は走る。いま住んでいる街を通り越す。車窓を見知らぬ風景が流れ出す。
やがて列車はT駅に着いた。駅を歩きながら、へえ、と思う。大きくも新しくもないその駅を、なんとなく好ましく感じてしまうのは、あの人はこの駅使っている、そう思うからなのだろうか。
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