【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『Feel』遠藤倉豆

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた9月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 昌史はふと目覚めた。飲み過ぎたのだろう、28年生きてきた頭は何重にも霞みがかかっているようで、まるではっきりしない。眼をつむると、自分の身体が水に落としたインクのような模様を描いて回り出すような気がする。
 意を決して昌史は起き上がった。ベッドから下りると脚がよろけた。
 ちゃんとパジャマを着ている。随分飲んだが、着替える分別は残っていたのだなと自分を褒めたくなった。しかしよく見れば靴下は履いたまま、何か変だと首元を見れば、ボタンが一段ずれて留めてあった。
 ――まあ、いいか。
 そう心でつぶやいて昌史は寝室を出た。だらしないからと怒る人もいないのだ。
 トイレに入って座る。リングに掛かった使い古したタオルや、端がきれいにカットされていないトイレットペーパー。レバーを引いて立ち上がれば、水洗タンクに落ちる手洗水に、青いプラスチックの卵みたいなのが撃たれている。ブルーなんとかとかそんな名前だったと思うが、交換時期をとっくに過ぎすぎていて、ただのプラスチックと化していた。
 きれい好きの専業主婦だった妻が、家事をおろそかにするようになったのはいつ頃からだったろうか。おざなりという言葉の意味を実感したのはいつ頃だったろうか。ベッドで事を終えた後、まるで汚いものに触れたかのようにシャワーを浴びるようになったのはいつの頃だろうか。
 その理由を知ったのは先週のこと。偶然だった。顧客先を出て歩いていると赤い軽自動車を見かけた。家の車だ。なぜこんなところにと思いながら、走り去る後ろ姿を見た瞬間、全てがわかった。運転席に座っているのは小柄な妻ではない。首の長い男の後ろ頭が見える。そしてその隣、助手席には見慣れた妻の姿があったからだ。
 やがて車は見えなくなった。その時点まで妻の不貞を疑わなかった自分が滑稽に思えた。あなたは私に関心がない、と常々妻が言っていたが、最近はその言葉さえ聞かなくなっていたことに、昌史はそのときになって気づいたのだ。
 確かに自分にも非はある。しかし不貞されるほどのことなのだろうか。自分は浮気もしていないし、毎日毎日会社に行っているのだ。笑って許せる余裕はなかった。
 夜に問い詰めると妻はあっさりと浮気を白状した。あなたには心は残っていないのと、歯の浮くような言葉を得意そうに話す。見ず知らずの他人と話しているみたいですっかり面倒くさくなった昌史は、彼女が望むままに離婚を承諾した。金でもめたくもないし、共有財産と慰謝料は相殺とし、そのほかの面倒事を終えた昨日の昼には離婚届を提出して、晴れて独身にもどったばかりなのである。
 洗面台で顔を洗っていると、櫛の歯が欠けるように、所々の何かが無くなっていることに昌史は気づいた。必要な物は勝手に持っていくからと言っていたが、そういうことなのだろう。よくよく考えてみれば、欠けているのは彼女がお気に入りだったものばかり。もうあとの物は全部要らないから、と離婚届にサインしながら聞いた気がする。LDKに入った昌史は物の多さに呆れる。寝室に回ってまたげんなりする。最悪なのは寝室の壁に張られている披露宴のパネルだ。にこやかに微笑むかつての二人を見ながら、あの女めと昌史は思わずにはいられなかった。
 その日は土曜だったから、不要品の整理をすることにした。小さな部屋に移ろうと考えていたから、どのみち殆どの物は処分しなくてはならない。妻が嫌っていたミュージシャンの曲を大音量でかけながら、要不要の袋にちまちまと分けていく。
 アルバムを手にした。そこにも、ここにも、あそこにも出てくる女の顔にうんざりし、そのまま全部を不要の袋に突っ込む。CDやDVDにもあの女の影がちらつく。
 ――何が「もうあとの物は全部要らないから」だ。
 自分のケツくらい拭いていきやがれと苛立つ中、ふと昌史は思った。
 ――全部新しくしたらいいんじゃね。
 素晴らしい響きだった。
 思い出だとか、過去だとか、そんなの面倒なだけではないか。死んだらどうせ、そんなものは消えてなくなるのだ。あの女も不要品だったと思えばいい。どうせ車もあの女に持って行かれたし、全てをリセットして新たな生活をスタートさせる。そのくらいの金ならあるし、誰に叱られるわけでもない。

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