【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『ハハダンジョン』宮沢早紀

「えぇ……せっかく東京にいるんだから、東京の大学にすればいいじゃない」
 真規子はおだやかに、しかしはっきりと言った。あの時も第一声は今日と同じ「えぇ……」だった。
「もちろん、東京の大学も受けるよ。かなり背伸びした志望校だから、入れるかわからないし」
「あら、そう。じゃあ受けてみたら」と真規子が返し、これで志望校の話は終わり。あとは三者面談を受けるのみだと貴恵は食卓の焼き魚に箸をつけたが、真規子が何も言わないので、正面に座る真規子をおそるおそる見つめた。
「第一志望も東京の大学にしなさい」
 厳しい口調と怖い顔で真規子に告げられ、貴恵はむっとする。
「東京の大学でこの分野をやってるとこ、ないんだもん」
「社会学とか少し広げて探せばあるんじゃない? 理系じゃないんだから、大丈夫でしょ。公にしていないだけで先生にお願いしたら詳しい人を紹介してくれることだってあるわよ」
「ちゃんと調べてないみたいな言い方しないで」
「そんなこと言ってないじゃない」
「あたしの人生に関わることだから真剣に調べて決めたんですけど」
「それは、わかってるわよ」
「じゃあ何? お金の問題? バイトだってするし、受験の時に学生寮の申し込みもするつもりだよ」
「お金のことなんて、お母さん一言も言ってない」
「じゃあどうしてそんなに反対するの? やりたい勉強なのにやっちゃダメってこと?」
「やりたい勉強があるのは立派だけど、ずっと東京で過ごしてきたあなたが、そんな田舎で、友達も親戚もいない中で、うまくやれるか心配なのよ」
「大丈夫だよ。友達だってできるし、環境にも慣れるはずだよ」
 結局、その日は父の正彦が帰ってくるまで激しく言い合いをした。今と比べるとあの頃は真規子もスタミナがあったものだと、貴恵は長時間に渡る言い争いを懐かしく思い出した。

 個人面談当日は志望校を変えたくない貴恵と東京の大学だけを受けさせたい真規子の間で板挟みにあって、今思えば気の毒ではあったが担任教師は面談の間中「お父様も含めたご家族でよく話し合って」という言葉をくりかえしてばかりいた。
貴恵が最も腹立たしく感じたのは、面談が終わって貴恵と真規子が席を立つ時に担任が放った「僕だったら、行かせないですけどねぇ……」という言葉だった。机の上で書類をトントンと整えながら真規子に笑いかけていた。
貴恵が思いきり担任を睨みつけると、担任は「一人の父親としての感想だよ、別に反対してるわけじゃないから」と慌てて頭を下げた。担任のぺこぺこと頭を下げる姿に貴恵はより一層腹を立てた。
確かに担任の元には半年くらい前に娘が生まれていたが、そんなことは貴恵には関係なかった。面談中はあくまで中立という風でいたので、最後の最後で担任に裏切られたような心地がした。
担任が発した「冗談」にくすくす笑っていた真規子だったが、あからさまに不貞腐れた態度をとりはじめた貴恵に「やめなさいって、みっともないでしょ」と怒り出し、結局、担任の余計な一言によって二人の溝は余計に深まったと貴恵は記憶している。

 貴恵が何か新しいことに挑戦して生活を大きく変えようとするたびに、真規子が立ちはだかる。貴恵が覚えている限りでは、真規子から小言を言われたり心配されたりすることなく、すんなりと事が運んだことなど一度としてなかったのではないかと思う。
続けてきた習いごとのピアノをやめる時、部活選び、志望校選び、海外への短期留学、外資系の保険会社に就職を決めた時、結婚前の修一との同棲、同棲をするのに選んだ物件、修一との結婚、新婚旅行の宿泊先……
何度も何度もぶつかってきた。正月にもらったお年玉で流行りの服を買おうとした時に一悶着あったこともあり、あの時は確か「五千円もしないスカート一着買うだけなんだからいいじゃないの」と祖父母の家に集まっていた親戚が貴恵に加勢したことで、どうにか難を逃れたのだった。

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