数日後の夜中、また子猫の声がする。猫の追跡に備えて短パンとTシャツで寝ていたハナはすぐに起きて窓を開け、用意していたサンダルにすっと足を入れて庭に出た。狭い裏庭には雑草しかなく隠れるところもない。一瞬で逃げていったようだ。しかし、どこからか声が聞こえる。
猫の声に導かれるように門から外に出ると、ふわっと温かい感触とともに、ちゃーがハナの肩の上に現れた。そしてハナの右耳にささやいた。「探さなきゃ」。
少し離れた道端の電信柱の下に、その子猫はいた。黒と白のハチワレだ。まだかなり小さい。怪我をしているのか栄養失調なのか、行き倒れのように横たわっている。生きているのだろうか? しかし近づいていくハナの気配に、ハチワレは顔だけをわずかにこちらに向けた。その瞬間、目が合った、とハナは思った。ドキドキした。ドキドキしながら、ゆっくり静かにハナはハチワレに近づいていった。そのときちゃーが断固とした口調で、「いいね、この子だよ。きみが待っていたのは、この子。」と言った。そうか、この子なのか。私はこの子を待っていたのか。不思議な感動がハナを包んだ。逃げないで。私があなたを迎えに行くから。
ハナは足音を忍ばせて子猫のすぐ横まで来ると、ゆっくりとしゃがんだ。再び目が合う。ハナがそっと手を差し伸べる。とそのとき、電信柱の電灯の光の輪から外れたハナの後ろの暗がりで、何かが動く気配がした。ハナの心臓は跳ね上がり、腰が抜けたように尻餅をつくと、立ち上がることができないまま恐る恐る首をひねって背後を見た。
後ろに立っていたのはメガネをかけた短髪の男性だった。向こうも短パンにTシャツ、足元はゴム草履。中肉中背、30代後半くらいか。暗がりから電灯の明かりの輪に一歩踏み出してくると、メガネの陰が濃く頬に落ちる。しかしその中のある目には狂気のカケラもなく、思いがけずハナを脅かしたことに戸惑っているのか、申し訳なさそうに、遠慮がちにハナを見つめていた。
「脅かしてすみません、怪しいものじゃなく、近所に住んでいる者です。この前から何回か猫の声が聞こえていて、心配で、今日は起きて声が聞こえるのを待って探しに出てきたんです」。
自分と同じような行動…自分と同じ猫好きなのか。ハナの緊張が一気にほどけた。ハナは立ち上がると無意識に自分のお尻をはたいて土を落としながら男の方に体を回した。
「私は…最近引っ越してきたばかりなんですが、あなたと同じ感じで…この子を家に連れて帰ろうかと」。
男もハナの警戒が解けたことを察したのか、口元にわずかに笑みを浮かべた。
「そうだったんですか。ぼくは飼っていた猫が先月死んでしまって。ひとりは寂しいし、また猫を飼いたいと思っていて…」。光の中で、はじめてハナとメガネの男の目がしっかりと合う。するとそのとき、ちゃーが耳元で囁いた。「いいね、こっちも!」。
「え? こっち?」と聞き返すハナ。突然のハナの独り言に「なにか…?」といぶかる男性。「いえすみません、なんでも…ないです」。口ごもるハナの耳元でちゃーは続けた。「よかった。これでもう安心だ」。こころなしか声が細くなっているようにハナが感じたのは、男に気を取られているせいかなのか。ちゃーの輪郭がいつもよりさらに少しだけぼやけてきたことに、ハナはまだ気づいていない。
そんなハナの足元に、ハチワレがいつのまにか起き上がって自分から寄ってきていた。ハチワレはふたりを見上げると、にゃあ〜〜と一声、甘えるように鳴いた。
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