【ARUHI アワード2022 8月期優秀作品】『猫の呼び声』イトウモトコ

ろくにお金を使ったことがないハナが、いきなり(おそらく今後を含めても)生涯最高額の買い物をした。会社まで1時間50分、最寄りの駅からバスで15分かかる築20年の一戸建て。ローンを組んでギリギリ買える物件だった。不便な場所でも一戸建てがよかった。そこで猫と暮らしたいから。家の周囲にはまだ畑が点在して緑も多く、豊かな自然が(というかただの田舎だが)心癒してくれるに違いないとハナは思った。

一戸建てにこだわるきっかけとなったのは、もちろん猫である。実家は古くて狭いマンションだが、猫や小型犬の飼育可であることが唯一のメリットだった。しかし新たに集合住宅でペット可物件を探すとなると、それだけで相当の物件が脱落してしまう。遠くても、田舎でも、一軒家。室内飼いとはいえ、それなら猫だってそこそこ自由に歩き回れて、いろいろなところに隠れられもする。そんな家に住もうとハナは決めた。

引っ越してきて1ヶ月がたちダンボールもほぼなくなった頃。「そろそろ動こう」と、ハナはパソコンを立ち上げて保護猫の譲渡会をネットで検索した。なるほど、いまはコロナのため猫との面会も少人数の予約制になっているわけね。さて、いつがいいかな。…と自分になんの予定があったか(といっても日曜の予定なんてほとんどないに等しいのだが)ぼんやり考えていたら…あら、パソコンの後ろから何か出てきた…。

ちゃー?!

え?! ちゃー??? ちゃーがどうして?! これは幻影??

びっくりしてヒュッと息を呑んだが、不思議と怖くはなかった。驚いたけれど、うれしかった。懐かしかった。あったかい気持ちがこみ上げてきて、「ちゃー?」と小さく声をかけた。ちゃーは少し輪郭がぼやけているものの、前足をお行儀よく揃えて座り、まっすぐにハナを見ている。そしてハナの呼びかけに、「うん、ぼくだよ」と答えると、ゆっくり2回、まばたきをした。「この家ならいいよね。広いし、いろいろ隠れる場所もあるし」。ちゃーの幽霊は、人間の言葉をしゃべった。

幽霊のちゃーはいつもそばにいるわけではなかったし、生きていた頃のようにハナの膝に乗ることもなかった。その代わり、いきなりハナの肩に乗ってきた。いや、正確にはハナの肩の上にふと現れるのだ。重さは感じなかった。ただふんわりと温かい気配を右耳あたりに感じると、それがちゃーの「降臨」だった。肩だけでなく、閉じてあるパソコンの上に寝そべっていたり、庭先に座っていたり、お風呂の浴槽のフタの上でくつろいで毛づくろいしていたりもする。いろいろなところにふっと現れ、少しだけしゃべり、気がつくと消えている。
どうもちゃーは、ハナが「迷っているとき」現れるようだった。家の壁紙を張り替えようと思って柄に悩んでいるとき。今晩の夕食に迷っているとき。休日に気合を入れて映画を見に行くか家でダラダラしているかを考えているとき。ちゃーは突然現れて「無地の壁紙は無個性すぎるから柄物にしたら?」とか「野菜もいいけど、たまにはお肉をドンっと食べてもいいんじゃない?」とか、迷う様子もなく口にした。そしてちゃーのアドバイスを受け入れると、その日がほんの少しだけ快適になるような気がハナにはしていた。そんな「自分にしか見えないちゃーとの半同棲」は、ちゃーのいない会社に行っても常ににこにこしていられるほどの充足感があり(同僚には、田舎暮らしが性に合ってたのねと言われた)、保護猫の譲渡会のサイトを再び開くこともなく日々は過ぎ去っていった。

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