アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた8月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
薄いグリーンに白い葉っぱ模様のカーテンをシュッと左右に開くと、ハナは元気よく寝室の掃き出し窓を開けた。春のやわらかな風とキラキラした光が差し込んでくる。なんて爽やかな朝。とハナは心のなかでつぶやいた。先週までは東京近郊のM市にある古いマンションの一室に、両親と一緒に住んでいた。そこから1時間ちょっとかかる都心の会社に18年通った。
短大卒業以来、いわゆる一般職のOLとしてハナは淡々と真面目に働いた。それと同時に徹底的に倹約もした。遠くても家賃がかからない実家から通う。無駄な外食はしない。旅行に行かない。流行の服も買わない(最低限の通勤服と部屋着と寝間着があれば十分暮らせるとハナは信じている)。同僚や上司との付き合いは最低限。会社には自分で作ったお弁当を持参する。などなど、自分で決めた倹約ルールはすべて18年間きっちりと守られた。入社したての頃は同期の女子社員からランチに誘われることもあったが、何があろうがお弁当を持参するハナは次第に「倹約家の変わり者」と認知されるようになり、やがて誰からも誘われなくなった。本人にとっては誘いを断るわずらわしさから開放されて喜ばしい限りで、悲しいとも寂しいともまったく感じることはなかった。倹約だけでなく、お給料からの引き落としで着々とつみたてNISAも続けていた。毎月通帳を見るのが何よりの楽しみだった。
付き合った男性もふたりほどいたが長続きはしなかった。決して非婚主義ではない。でも結婚に至る決め手が何なのか、ハナにはまったくわからなかった。同じ年頃の女性たちのなかには、高収入の男性と結婚して自分は働かなくても遊んで暮らせるのがこの世の最上コースと考えている人が少なからずいたが、逆にハナは、なぜそんな無謀な夢を抱けるのかわからなかった。夫が早くに死んでしまったら? 浮気や離婚をされたら? リスクばかりが果てしなくハナの頭に浮かんた。ハナの目標は自立。だからお金を貯める。経済的な自立がなければ、人としての自立もないとハナは思っていた。そんな自分のことを、ハナは「小心者」と分析していた。小心者だから、リスクを考えると怖くて他人(夫)には頼れない。結婚してもしなくても、とにかく自分で稼ぎ続けるのは当然。それだけのことだった。
人間の友達はいなくても、ハナには愛する相手がいた。茶トラのちゃーだ。短大を卒業する前、母親のご近所友達の飼い猫が産んだ5匹の子猫のうちの1匹を譲り受けたのだ。可愛かった。ただもう可愛かった。どうしてこんなに愛情を注げるのか自分でもわからなかったが、とにかく可愛くて仕方なかった。
そのちゃーが去年死んだ。19歳。天寿を全うしたといえよう。それは十分にわかってはいたが、だからといって飼い主の悲しみが軽くなるわけでは決してなかった。
抜け殻のようになりながら機械的に会社にだけは通ったが、心の穴はなかなか塞がらず、それどころか、ちゃーのいないこの家になんで私は住んでいるのか、とすら思うようになった。ちゃー亡き後にやってきた底なしの寂しさ。毎日のように、ふっと部屋のあちこちに浮かぶちゃーの在りし日の姿。愛らしかったちゃーの思い出が蘇るたびに、ハナはひっそりと涙をぬぐった。
すべてはタイミングなのだろうと、新しい家のリビングに置いた小さい合皮のソファに座ってハナは思い起こしていた。ちゃーが死んだのは、コロナが蔓延して在宅ワークが定着した頃でもあった。コロナが落ち着いてもハナの出勤は週2回程度となり、毎日の通勤から開放された。もっと会社から遠い場所に住んでもイケるかも。そう思った。そしてその頃、貯金も相当貯まっていた。「ちゃーのいない家から出て自分の家を持ち、新しい家族を迎えて暮らすべき時が来たのかもしれない」。ティーバッグを入れたままのマグカップで紅茶を飲みながら、ある晩ハナは考えた。そしてそのしばらくあと両親に「相談したいことがある」と申し出たのだった。
自分はどうも結婚しそうにない。つきましては将来のことを考えてなんとか自分の家を持ちたく、私の結婚資金としてプールしているお金があれば、どうか今、家を買う資金の足しにさせてくれまいか。そう直談判すると、案外あっさり両親は折れた。思った以上に多額の資金を両親が貯めていたことに、ハナは素直に感謝した。