【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『安心とラブ』青井優空

 アンさんはずっと素敵な人だ。誰かの悪口を言っているところは見たことがないし、料理も洗濯も掃除もできる。アンさんが作るオムライスがとても美味しいことに気付いたのは、出会って二年ほど経った頃だった。勉強もできて、運動もそれなりに得意としているアンさんは私の受験勉強にも付き合ってくれた。私がアンさんに八つ当たりしても、アンさんが私を見放すことはなかった。
 アンさんと私が出会って五年。私は十四歳で中学生、アンさんは二十四歳で社会人の時、私に新しい父親ができた。いい人だとはとても思えなかった。暴力的で、働きもせずに毎日ギャンブル三昧。母がどうしてこんな人に惚れたのか、不思議でならなかった。どうしてこんな人のために若作りをして、肌を見せて、毎日綺麗でいようとしたのか、本当に今でも分からない。父とは到底思えないから、私は彼のことを心の中でクズ、と呼んでいた。クズは時折私にも暴力をふるった。その後、笑顔で謝ってくるのだから、私は怖くてたまらなかった。警察に突き出そう、と母に言っても、母は心底クズに惚れているようで、聞く耳を持たなかった。クズのことを理性のある人間だと思わなくなったのは、クズがアンさんにも手を出した時だった。酔っ払ったクズは酒瓶で私を殴ろうとした。今でもあの瞬間のことを鮮明に覚えている。動けなくなった私を庇ったのはアンさんだった。そのせいで、アンさんのこめかみには傷ができた。とても白くて綺麗なアンさんの肌に傷をつけてしまったことを私は泣いて謝った。アンさんは怒らずに、私のことを心配してくれた。その日から私は、アンさんの家に通うようになった。母もクズもなにも言わない。高校二年生になった今夏もずっとアンさんの家にいたいとこの前アンさんにせがんだばかりだ。アンさんは笑顔で頷いてくれた。
 十も離れている彼女を私は、時に母のように、時に姉のように慕った。さくらちゃん、とアンさんが私の名前を呼んでくれる時、私の名前はその瞬間だけとても素敵なものになる。

「さくらちゃん。今日はオムライスにしようか。」
「いいの?」
「卵がとろとろになるように頑張るから、さくらちゃんも課題頑張って。」
「うん、わかった。ありがとう、アンさん。」
 アンさんと過ごしている中で、私はアンさんの色々な表情を見てきた。泣いている顔も歪んだ顔も楽しそうな顔も。アンさんに一番似合うのは、やっぱり笑顔だった。
「アンさん。今日はイチさんも来るの?」
「イチちゃん?うーん、分からないけれど、なんとなく来る気がする。」
「イチさん、気紛れだもんね。」
「わたしが出会ってきた人達の中で一番、自分の感情を大切にしている人だから。やりたくないことは全くやらないし、好きなことはとことん究めているし。」
 イチさん。金髪のボブがとても似合うイチさんはアンさんの高校からの友達だ。出会って長くない私も分かるくらい、イチさんは気分屋だ。夜の十一時に突然やって来て、晩ごはんの残り物を食べてお酒を飲んで話をしてから帰る。フリーライターのイチさんは日本中を飛び回っているようだ。けれど、連絡は滅多にとらないから、どこにいるのかなにをしているのか、会うまで生きているのかすら分からないらしい。イチさんは、初めて見るタイプの大人に動揺を隠せない私にも陽気に挨拶をした。どうして友達の家に子どもがいるのか、聞く気もなさそうだった。ちゃんとした自己紹介もしていないから、もしかしたらイチさんは私の名前すら知らないかもしれない。

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