【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『右腕の出勤』町田 舜


「この家で彼と同棲したいと思うてます」右腕の京都弁は腹立たしいくらい上手だった。「加奈子さんは、その、なんというか……。出て行っていただけると大変助かります」
「なんで私が出て行かなあかんのよ。ここ借りてるの私なんやで。家賃払ってるのも私なんやから」
「家賃はもう私が払ってますよ。生活費だって全部私が払ってますよね。加奈子さんは、まだ自分が峯田加奈子のままやと思ってはるんですか? だとしたらそれは大間違いですよ。私の体の変化に、加奈子さんも気がついてはるんでしょう? 私、最近、自然に京都弁を話すようになってきたんですよ。髪の毛やって生えてきたし、なんだか加奈子さんに似てきたなって実感してるんや。いや、似てきたどころの話やない。もう、私は峯田加奈子なんや」
「何を馬鹿なことを……」
 確かに、右腕の成長は凄まじかった。目は大きくなってまつ毛が生えてきていたし、背も高くなって加奈子と同じくらいになっていた。言われてみれば右腕はもう峯田加奈子だった。
「加奈子さん、自分の左腕見てみい。ブラブラして取れてきてんで」
「あ、本当や。唇も斜めに溶けかかってきてるわ」
「何言うてんねん。そんなわけあるか……」
 加奈子は自分の顔を触った。口は粘着力のなくなったシールのように取れかかっていた。
笑う二人が急に怖くなって、加奈子は家を飛び出した。加奈子は走りながら自分の運転免許証、マイナンバーカードを確認した。二つとも名前は峯田加奈子となっていたが、顔写真は右腕のにんまりとした顔にすり替わっていた。
加奈子はさらに走った。左腕は走っている最中に落ちてしまった。かなりの速度で走っているのに心臓の鼓動は聞こえてこなかった。加奈子は自分の存在が煙のように空に消えていくのが分かった。
会社にも行ってみた。守衛を振り払った時に、とうとう口が床に滑り落ちた。自分のデスクには本来ならば加奈子が処理しているはずの起案書類や企画提案書がトレイにきれいに並んでいた。
加奈子は引き出しを足で探って社員証を出した。やはり顔写真は右腕ののっぺりとした顔に変わっていた。

加奈子が消えた後も、右腕は元気に会社に出勤している。もっと筋肉質な体になりたいと思って日々筋トレも行っているが、まだまだ理想の自分にはなれていない。
右腕はいつか祐樹との間に子どもをもうけたいと思っている。家族三人で新しい暮らしを始めるのだ。もう誰かの右腕のような人生とはおさらばだ。
来週、右腕は加奈子の父に会いに行くことにした。何だか最近体の調子がおかしいらしい。そういえばこの間電話で話した時に「右腕の感覚がなくなってきた」と言っていた。

(了)

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