【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『蜘蛛の巣』横尾千智

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた7月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

「手を洗ってくるよ」
そう言って私は洗面室に行った。
この家の洗面室は風呂場とトイレの間に挟まれた5畳ほどの空間にあり、脱衣所を兼ねている。洗濯機のほかに、タオルや下着を入れた棚があるせいで、かなりせせこましい。来客時にはここで手を洗ってもらうのだが、4人家族分の歯ブラシに妻の化粧品、娘の矯正器具なんかが置いてあるときもあって、生活感と言えば聞こえはいいが、あまり人には見せたくなかった。だが、そんなことは気にしなくていいくらい、ここには問題がある。

蛇口をひねって水を出した。流水を受ける洗面器には、かつての真っ白でピカピカだったころの面影はなく、水垢でくすんでいる。けれど、それよりなにより、放射状に開いた大きなヒビ割れが目立つ。
これは、数十年前に私が電動髭剃りを落してしまってできた傷だ。私はこれを「蜘蛛の巣」と心の中で呼称していた。
蜘蛛の巣が生まれたのは、やっと手に入れた新居に引っ越し、まだ2日目の朝だった。
妻に言えばなんとどやされるかわからない。まるでいたずらを隠す子供のようだが、私は知らんぷりして、その日は会社に出勤した。
そして、夢であってほしいと思ったが、帰宅してもむしろさらに成長したような蜘蛛の巣に、恨めしい気持ちを抱き、手を洗った。
しかし、食卓に着いても風呂に入ってビールを飲んでも、妻からは一向に蜘蛛の巣の話題が出なかった。

―まさか気づいていないのか?

そんなはずはない。妻だって毎朝顔を洗い、トイレから出たら手を洗い、歯を磨いている。気づかないはずはなかった。
家を買ったばかりで洗面台の修理代を出すのは嫌だったし、何よりどれだけ経っても妻からの指摘がなかったので、蜘蛛の巣はそのままにされて、今日に至る。
生まれたときからこの家に住んでいた子供たちならば、最初からあるものに対して疑問を持たないのはわからないでもない。しかし、妻のノーリアクションは、ある種不気味であり、挑発的であり、我慢比べのようなところがあった。
私は意固地になって、毎日対峙する蜘蛛の巣に対し、恨めしい気持ちだけを募らせた。

「トラックが来たわよ」
妻が急に顔を出すので、私の肩がビクンとはねる。
「感慨に浸ってたの?」
妻が苦笑する。
私は、なぜかものすごい衝動に駆られた。
今日、私たちはこの家から引っ越す。子供も独立し、仕事も定年し、駅から30分もある坂の上のマイホームに別れを告げる決心をしたのだ。次は孫たちに会いやすい距離で、夫婦に見合った綺麗なマンションに住む。
この家は、残りの段ボールが運び出され、住民たちが去ると、取り壊されるのだ。
はるか昔に私がみた更地の風景に戻ろうとしている。

―つまり、今を逃すと、もう一生この謎は解明されることはない!

「これなんだけど・・・」
私は振り返らずに言った。
妻はきょとんとして私の視線の先を確かめようと、肩越しに覗いてくる。
「ああ、オハナのこと?」
「オハナ?」
「そのヒビ、花みたいな形でしょ?」
呆気に取られた。妻もまた、自分だけの名前を付けていたのか。
「気づいてたの?」
「え?」
「ずっと何も言わないから・・・」
「気が付かないわけないじゃない!」
妻は大爆笑だった。当たり前と言えば当たり前だが、私は驚きと安堵を感じるとともに、急に恥ずかしくなった。
「直せばよかったな」
「ここまできて何言ってんの」
そう言ってから、妻はやや真面目な顔になった。
「でも、ごめんなさいね」
恥ずかしそうな、申し訳なさそうな妻の顔に、今度は僕がきょとんとする。
「まさか、引っ越した初日にドライヤーを落すなんてね」

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