右腕は毎日休まず会社に出掛けた。働くのが楽しくて仕方がないらしい。加奈子とは違って勤勉でなによりだった。
彼女が加奈子の代わりに働きに出ることによって傷病手当は打ち切られてしまった。だが、彼女の給料は加奈子のそれよりも多かったので全く問題なかった。右腕は加奈子の二倍は働いた。家に帰ってくると彼女は嬉しそうに仕事の話をした。右腕は片腕のわりにタイピングが速いと評判らしい。ミスも少なく、彼女は周りからも信頼されていることがうかがえた。
「あなた、会社ではなんて呼ばれてるん?」
加奈子は夕食のハンバーグを頬張りながら言った。
「峯田って呼ばれてますよ」
「なんで私の苗字で呼ばれてるん?」
「なんでって……。だって、私は加奈子さんですし。ネームプレートも加奈子さんのものをそのまま使ってますし、取引先の皆さんからも峯田さんって呼ばれてます」
「でも、私だって峯田加奈子やし。なんか違和感あるなあ……」
加奈子は漠然とした不安を抱いた。
「会社の人たちは私のこと、なんか言ってた?」
「いえ、特には……」
右腕に腕が生え始めたのは、彼女が会社に通いだして一年が経った頃だった。一方、加奈子には投薬の効果が一向に現れなかった。料理を作るのも、車に乗るのも、髪を洗うのも、全部片手で行っていた。最初から右腕なんかなかったのではないか、と思うほど加奈子は片腕の生活に慣れ親しんでいた。でも右腕がいらないかと言うと、そういうわけではなかった。
「なんで私やなくて、あなたに腕が生えるん? 毎日薬飲んでんの私やのに」
加奈子は右腕に聞いた。
「キリンの首が伸びたのと同じ理由じゃないですかね?」
右腕は言った。
「キリンは高いところに生えているリンゴを食べたいと思ったから進化の過程で首が伸びたって言いますよね。私ももっとタイピングを速くしたかったし、電車のつり革をがっしりつかんでみたいと思ったんです。未来を変えるのはいつだって自分の気持ちです。加奈子さんは腕を生やしたい理由って何かありますか?」
「そんなん決まってるやん。元からあったものがなくなったんやから元に戻したいに決まってるやん」
「それだけですか?」
「あと腕がなきゃ不便やし」
「本当に不便ですか? 私にはそうは見えません。毎日楽しそうに遊び歩いているじゃないですか。加奈子さんは、本当は腕なんか元々必要なかったんじゃないですか? 腕がこのまま生えなければ働かなくて済むからラッキーだ。そんなふうに思っているんじゃないですか?」
右腕はその晩から、かねてからの希望だった腕立て伏せを始めた。彼女の体は日に日に分厚くなった。加奈子の細い左腕とは比べ物にならないくらい右腕は大きくなっていた。右腕からは、加奈子の右腕だったころの面影が完全になくなっていた。
「加奈子さん、実は紹介したい人がいるんや」
ある朝、まだ眠気眼の加奈子に右腕は言った。
「初めまして。峯田さんとお付き合いさせてもろうてます来栖祐樹と申します」
右腕が連れてきた彼は左腕だった。