そして二人が現実から目をそらし始めたタイミングで、無情にも時計はタイムリミットを示した。
「結衣、そろそろ時間」
先に夢から覚めたのは瞳だった。
「え?あ、本当だ!」
結衣はぱっと椅子から立ち上がり、リュックにキャリーケース、更には肩がけの鞄まで、大量の荷物を持って玄関の方へ向かう。瞳はその後を追い、靴を履き始めた結衣の背中を壁に寄りかかりながら見守る。
「忘れ物ない?」
「ない!」
まるで遠足前の親子のようなやり取りだった。こんなおかしなやり取りも、奇抜なスニーカーがこの家を飛び出していくのもきっと最後だろう。ありふれた日常が、特別な意味を持っている。
「なにかあったら電話していいからね」
「了解!」
「……あと」
瞳が声をかけると、靴を履き終えた結衣がくるっと瞳の方に身体を向けた。なぜか結衣のことを直視できず、瞳は目線を外す。
電話はかかってこないだろうな、と瞳は思った。結衣は目の前のものに没頭するとそれ以外を忘れてしまう人なのだ。きっと夢が叶うまで日本に帰ってくることもこないだろう。すべて分かっていたが、だからこそ伝えなければいけないと決意を固める。
「すぐ帰って来たら怒るから」
瞳はあえて厳しい口調でそう言った。本心はまったく違っていて、行かないで欲しいとさえ思っている。それでも瞳は喉まで出かかった寂しさを飲み込んだ。
「夢叶えてきなよ」
冷静を装ったまま背中を押してくれる瞳に、結衣は「もちろん!」と眩しい笑顔で返す。瞳はその笑顔に、もう自分にできることはないと悟った。
「……よし!」
結衣が扉を開ける。その瞬間、二人の間に春風が飛び込んできた。爽やかな風が瞳と結衣の別れを色づけ、鮮やかなものに変えていく。
「いってきます」
瞳は結衣の姿が眩しくて少し目を細める。色素の薄い茶色の髪が太陽の光できらきらと光っていた。
瞳は「いってらっしゃい」と言って控えめに手を振る。結衣はその言葉を全身で受け止め、歩き始めた。何度も振り返りたい衝動に駆られながらそれを必死にこらえ、エレベーターに乗り込む。エレベーターが閉まった瞬間、結衣の姿は瞳の視界から完全に消えた。
一人残された瞳には、まだ結衣と別れた実感がなく、身体が宙ぶらりんになる。とりあえず扉を閉めてみると、二人だと狭かったこの家がとても広く感じられた。
「……今日から一人か」
瞳は珍しく独り言を呟いてみた。静かな部屋に響く声は誰にも拾われないままシャボン玉のように弾ける。
淡い色合いをしたまま一向に塗り替えられない心を落ち着けるために、瞳は結衣の残していった荷物の片付けを始める。あの結衣でさえいらないと判断した物々は、ほとんどがらくたばかりだ。しかし、なぜかその中に結衣が気に入っていたヘアピンが混ざっている。「これは持ってく!」と言っていたのに、どうやら忘れてしまったらしい。
「けっきょく忘れ物してるじゃん」
瞳は笑って、そのヘアピンをポケットにしまう。他にも忘れ物があるだろうと、入念し部屋の片付けを続けた。
そしてほとんどの物を片付け終え、最後にベッドの下を覗き込む。きっと結衣のことだからいらない物をベッドの下に隠しているだろうと思っていた。しかし予想に反して瞳が見つけたものは、綺麗にラッピングされた赤い袋だった。
ベッドの下から引っ張り出してみると、大きな袋の上に手紙があった。宛先は書いていないが、それが結衣から自分へ宛てられたものだとすぐに察する。