「なんで?ただコーヒー淹れるだけじゃん」
瞳が淹れたコーヒーを強制的に飲まされるという不思議な時間は、結衣にとって儀式のようなものだった。決まってその儀式は大事なときに行われる。結衣が初めて小さな個展を開くことになった日も、結衣が初めて海外に行った日も、なぜか強制的にコーヒーを飲まされた。
いつも瞳が使っているカップよりも大きなマグカップにコーヒーを注がれた結衣は、その黒い水面を見て絶句する。
「いただきます」
「……いただきます」
二人は朝食を食べ始める。まるで日常の一部のような、何気ない朝。しかし瞳と結衣にとって今日という日は特別なのだ。どこか卒業式の日の朝にも近い、別れを前にして切なくなるあの心情だった。
瞳も結衣も口数が少ないからか、いつもより早く朝食を食べ終える。結衣は、まだ一口も飲んでいないコーヒーを見つめていた。このままにらめっこをしていても黒い液体が減るわけではない。結衣は意を決してマグカップを手に取り、ごくりと音をたてながらコーヒーを飲んだ。
「……うえっ」
容赦なく口に広がる強烈な苦味に顔を歪める。瞳はそんな結衣の姿を母親のような優しい眼差しで見つめている。
「なんかいつもより苦くない?」
「だって一番苦いやつにしたもん」
「え」
「全部飲みきってから行ってね」
「……えー」
結衣は不満げに眉を寄せ、マグカップを置く。底がテーブルに当たってコツンと硬い音が鳴り、その音と共に結衣の脳内へ懐かしい記憶が蘇ってきた。
まだこの家に二人分の食器がなかった頃、こうして瞳の淹れたコーヒーを飲んだことがある。
「昔さ、私が親と喧嘩してここに転がり込んで来た時も同じことされたよね」
「したした」
「『これ飲み切ったら一緒に住んでもいいよ』って言われて」
「泣きながら飲んでたね」
瞳はくすりと笑ってコーヒーを一口飲んだ。その瞬間、瞳の頭の中にもその時の記憶が蘇り、鮮明な映像として流れ始める。
大きな荷物を抱えてやって来た結衣、鼻を真っ赤にしていた結衣、今にも泣き出しそうな顔で笑って「ごめん、今日だけ泊めてくれる?」と言った結衣。東京で珍しく雪が降った日、初めて結衣の弱さを知った。あの日の記憶は、瞳の中でかけがえのないものになっている。
それは結衣も同じだった。驚きながらも泊まらせてくれた瞳、「あったまるから」とコーヒーを淹れてくれた瞳、コーヒーを飲まずに俯いていたら「これ飲み切ったら一緒に住んでもいいよ」と言ってくれた瞳。一つ一つの景色が、写真として切り取れそうなほど鮮やかに残っている。
「最初はなんでコーヒーなんだろうって思ってたけど、今ならね、ちょっと分かるような気がする」
結衣はコーヒーを一口飲み、その苦味にまた眉を寄せる。小さい頃から一度も美味しいと思ったことがない、苦い苦いコーヒー。しかし、今まで飲んだ中でも一番苦いであろうこの真っ黒なコーヒーを、飲み干したいと思っている自分がいる。「大人になったのかな」なんて思いながら微笑んだ。
「私あのコーヒーがあったからちゃんと泣けたんだよ。全部コーヒーのせいにして」
結衣は一気に残りのコーヒーを飲み干し、空になったマグカップを置く。そして凛とした表情で、まっすぐ瞳を見つめた。瞳はその目を見た瞬間、もう自分たちが子供ではないことを思い知った。セーラー服を着て笑い合っていた二人は、違う道を歩み始めている。
「ありがとう」
結衣の言葉はまるで卒業の挨拶のようだ。瞳はぎこちなく微笑んで、動揺しているのを悟られないためにコーヒーを口にする。なぜかコーヒーが喉を通っていかず、瞳はカップを置いた。
空のマグカップと、コーヒーの残ったカップがテーブルに並んでいる。