【ARUHIアワード12月期優秀作品】『人生の決断』倉地雄大

「少し疲れてしまって」
おじいさんが急に話しかけてきたので、僕は驚いた。頭の処理が追いついておらず、おじいさんのその声が電車の中で僕を通り越して進んでいるような気がしたが、僕は俯いて一拍考え、顔を上げて確認した。
「……」
不思議な物で、おじいさんの目はまっすぐ僕を見ていた。
「良ければお座りください」
空いている目の前の席に、座るよう促した。
「すまんなぁ。若いのに珍しいな。優しい優しい」
「……いや、おじいさんの様子を見ていたら、さすがに自分が座ろうとまでは思いませんよ」
「ふぉっふぉっふぉ。ありがとうな、若いの」
奇妙な笑い方をするおじいさんだ。だが僕は、初対面の人と間髪入れず話せるほどコミュニケーションが上手いわけでもなく、それから特に会話はなかった。
 僕は窓の外を見ながら、おじいさんの人生について考えていた。勝手におじいさんと呼んでいるけれども、年齢は分からない。おそらく70歳くらいだろうか……。70歳ってことは、もう定年しているんだよな。この時間に電車に乗っているってことは、どこかで再雇用されているのか。きっと働き者だったんだろうなぁ。いわゆる企業戦士ってやつか…。だとしたら長年貢献した企業か、その関連会社とか再就職しているんだろうな。きっと企業に尽くして働いて……でもきっと、あまり評価されず、今もきっと歯車のひとつとして働かされているんだろうなぁ……。少しだけ、なぜか僕も憤りを感じる。そして僕もこのまま目的もなく生きていたらこんな風になってしまうのかな、なんて考えた。

「♪〜次は田町、田町……」

急に、おじいさんが話しかけてきた。
「若いの、人生の先輩から一つ恩返しをしよう」
席を譲った御礼のつもりだろうか。たったそれだけなのに、妙に親切なおじいさんだ。でも不思議なのは、おじいさんの言い方に変な嫌味や説教臭さ、押し付けがましさを感じがない。自然と耳を傾けていた自分にも驚いたが、きっとおじいさんが疲れた顔をしていたのと同じで、僕は何かにすがりたい顔をしていたのだろう。親切なおじいさんなのかもしれない。
「いいか少年……」
おじいさんがなぜ僕のことを少年と声をかけたのか分からなかった。しかしこの瞬間、窓に映った自分は、不思議なもので、少年に見えた。10歳の僕が、その時確かに窓に映っていた。
「大切なものは、いつも土の下に眠っていて、それを大切に大切にしていくと……」
いつもはそんなことないのに、ちょっとだけ急ブレーキがかかった衝撃で、揺れた。手すりに捕まっていた僕だったが、油断していたこともありよろめいた。電車の音と出ていく人と、乗り込む人。そのごった返しで、おじいさんの声がかき消される。

「聞き逃したので、もう一度教えてください!」

 思わずそう叫ぼうとしたが、僕の口から出たのは誰にも届かないような言葉とは言い難い、吐息のような音だった。ごった返しが落ち着いた頃には、おじさんはどこにもいない。下車したのだろうか……。少しの出会いだったが、ちゃんと「さようなら」を言いたかったな。そして願わくば、最後聞き取れなかった言葉を聞きたかったな。中途半端すぎて、何かすごく気になる。でも、こうやって何かを知りたい、何かを聞きたいと渇望したのは久しぶりだった。人は得てして、欲しいものは手に入らないし、手に入らなかったものはずっと心に引っかかってたりする。手に入ったものは、ずっと欲しかったものでも、あるとき急に色褪せて見えてしまうこともある……。なんだかすごく難しい。なんだかすごく生きづらい。自分の問題だということはわかっているのだが、頭でわかっていることと感情としてふつふつと起こるものは、別だ。

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