「ねえちゃん、帰らないの?」
このまま帰るのは気が済まなかった。まだ幼稚園児の弟を置き去りにした文句を言ってやらねば。それに、明音もあっぱとは何か、気にかかっていた。二軒先の深川家まで行き、インターホンを押すと、恵が出てきた。
「あの、伸太郎、帰ってますか?」
「ちょっと前に走って帰って来たけど、どうしたの、明音ちゃん。伸太郎、何かした?」
「かくれんぼして…。洋太を置いて帰っちゃったんです。あっぱするからって。遊んでたのに…。あっぱって、何ですか?」
言いながら、明音の目にも涙が浮かんできた。洋太と伸太郎が見つからない時の、言いようのない不安が蘇ってきたのだ。
恵は、一瞬きょとんとしたが、突然吹き出した。何がおかしいのだ。明音の、怒りに満ちた目を見て、恵は笑いをひっこめた。
「ごめんごめん、あのね…。あっぱっていうのは、福井の言葉でウンチのこと。あの子、大慌てで帰って来て。まだ、トイレ入ってる」
顔から火が出る、という言葉をこのとき明音はまだ知らなかった。だが、恥ずかしさで体中が熱くなるのだ、ということをこの時初めて知った。さよならも言わずに、洋太をひっぱって深川家を飛び出した。
夕飯のあと、早々と部屋に入った明音の耳に、千鶴が大笑いしている声が聞こえた。ケータイが鳴っていたから、きっと恵だろう。明日、学校できっと伸太郎はこのことを同級生たちに話すだろう。最悪だ。もしかしたら、おかしなあだ名までつけられてしまうかもしれない。小学生とは、そういうものだ。明音は、なかなか眠れなかった。
翌日、いつもより早く家を出た。伸太郎と会いたくなかった。教室で、席に座りうつむいていると、伸太郎が近づいてきた。きた!思わず身構えると、一言、
「ごめんな、昨日先に帰って。ハラ、痛くなったんや」
と言った。拍子抜けして、伸太郎を見上げると、くりくり目を糸のように細めて、
「今日も光橋山、いこな!」
と言うと、男子たちの輪に駆け出して行った。
全く、黒歴史だ。よりによって、初恋のきっかけが、あのことだなんて。
言いたいことだけ言って駆け出すあいつは、小学生の頃のままだ。明音は、伸太郎が駆け下りていった坂を、ダッシュで走った。今度は、こっちが言いたいことを言う番だからな。
春風が、明音の背中を優しく押した。
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