アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。
桜のつぼみがふくらみ始め、薄く色づいた坂道を駆け上がっていく。その暖かな色味と、自分の吐く息の温度が混じり合って、朝靄の中にとけてしまのではないか。
展望台へと続く坂道を息を弾ませて上りながら、明音(あかね)は、一瞬そんな錯覚に包まれた。
自宅にほど近い、この光橋山(みつはしやま)公園をジョギングすることは、遠藤明音(あかね)のここ1か月の朝の日課だった。山頂に小さな動物園があり、子供向けの遊具も併設されたこの公園は、日中には多くの家族連れで賑わうが、今はまだ朝の7時過ぎ。すれちがったのは、柴犬を連れたおじいさんくらいだ。
よし、と自分を奮い立たせてこの日課を始めたのは、3月上旬、高校1年の学年末テストが終わった日だった。その時には、桜の木々はまだ寒そうな枝だけに見えた。それが、日に日につぼみが大きくなり、色づいていく様子を一人占めできるのは、一女子高生に過ぎない明音には、かなりの贅沢と言えた。
――春休みのうちに、満開になるといいな――
自然と、足も軽くなる。ゴールに設定してある展望台までは、あと30秒といったところか。
「あれ?」
最後のカーブを曲がったところ、展望台に設置されている小さな鐘つき台の傍らに人影が見えて、明音は思わず声を上げた。うすぼんやりとした朝靄の中でも、その先客が誰か、すぐに分かった。
「伸太郎?」
呼ばれた、グレーのアディダスのパーカーがゆっくりと振り返る。
「おう、明音。お前、こんなとこで何してるんや」
よく日焼けした、坊主頭が驚いたように言った。朝っぱらから、うらやましいくらいのくりくり目だ。
深川伸太郎は、明音の幼なじみだ。同じ町内に住むこの男とは、小学生の時には飽きるほど一緒にいたが、中学生にもなると自然と会話も少なくなり、高校が別々になってからは、数えるほどしか会っていない。一番最近会話したのは、伸太郎が明音の弟の洋太に、借りていた漫画を返しに来た時で、それももう2か月も前のことになる。
「何って、あたしは最近、毎朝走ってんの。あんたこそ、何してんの」
我ながら、かわいげのない言い方だ。
「はー、お前、えらいな。さすが仁朋(じんほう)テニス部。俺も、はよ目ぇ覚めたでジョギング。春季大会、勝ちてえし」
明音は、中学3年の時に推薦を受け、テニスの名門高校である隣町の仁朋女子学園に電車通学している。この、毎朝のジョギングも、生き馬の目を抜くようなレギュラー争いから脱落しないよう、自主的に始めたトレーニングの一つだ。地元の坂江(さかえ)高校で野球に励む伸太郎とは、登校も下校も時間がずれるらしく、去年一年間、通学路で出会ったことは一度もなかった。
四歳からテニス一筋の明音に対して、伸太郎が野球を始めたのは中学からだ。しかし、抜群の運動神経に、没頭すると他のことが目に入らない一途な性格も加わって、中学2年生の中ごろには、見事、センターのレギュラーポジションを獲得していた。高校でも、1年の夏からベンチ入りをしたということは、洋太から聞いていた。
「なんやぁ、たまたま目ぇ覚めただけかぁ。そんなんやと、新一年生にあっという間にレギュラーとられてしまうで」
野球に目覚めた伸太郎が、どれほど努力をしていたかは、よく知っている。なのに、つい憎まれ口をたたいてしまうのは、幼なじみの気安さか、明音の元々の性格か。――ほんと、かわいくないな。ひっそりとため息をつこうとしたその前に、伸太郎の軽口が飛んできた。
「明音、お前めっちゃ福井弁うまくなったな。『あっぱ事件』の頃が、ウソみたいやわ」
会話のキャッチボールどころか、とんでもない暴投だ。耳がさっと熱くなる。