言い返した時には、すでに伸太郎は、今、明音が上ってきた坂を下り始めていた。ほんな、またな。
の声が、響いて消えていった。
遠藤明音が、家族で東京から福井に引っ越してきたのは、明音が小学校二年生にあがる春だった。父・憲明(のりあき)の勤務先である、大手スポーツ用品店が、この地方に初出店することになり、店舗責任者に抜擢されたのだ。成功すれば、エリアマネージャーへの道が開ける。憲明が張り切っているのは、幼い明音にもよくわかった。
「おとうさん、がんばるからな。庭がある、大きい家、建ててやるぞ」
転勤が決まってからは、晩酌のたびに明音と洋太を膝に乗せ、上機嫌で言い聞かせていた。洋太は無邪気に喜んでいたが、明音は母の不安げな顔が気になっていた。
「何これ!誰もいないんだけど!」
引っ越し初日、坂江駅に降り立った瞬間の遠藤千鶴(ちづる)の第一声である。千鶴の後ろでは、憲明が苦笑いしている。そんな両親をよそに、明音と洋太は、広いプラットホームを子犬のように駆け回っていた。これだけ長いプラットホームでかけっこができるなんて、夢のようだ。駅とは、母とはぐれないか、大人たちとぶつからないか、緊張しながら歩く場所ではなかったか。
駅を出て、新居へと向かうタクシーの中でも、千鶴の口からは驚きの言葉が止まらなかった。
――自動改札機がないJRの駅なんて、初めて見た――
――県内二、三番目の市と聞いていたのに、駅ビルがない――
――バスターミナルも見つからなかった、買い物に行くのはどうすればいいのだ――
「こういう地方都市は、車社会なんだよ。車で10分も走れば、スーパーも、病院も、何でも事足りる。甲府だってそうだろう?今週末にはアウトランダー納車だし」
憲明は、自分の地元である甲府を引き合いに、妻をなだめた。
「でも、甲府だって自動改札はあったし、一応首都圏だよ?こんな田舎で、明音と洋太の受験、大丈夫なのかな」
「まだ先の話だろ?勉強は、どこにいようと自分次第だ。それより、明音、洋太。今度の日曜新しい車来るぞ。楽しみだな」
一向に明るい表情にならない妻の機嫌を取ることをあきらめた憲明は、タクシーの助手席から子どもたちに笑顔を向けた。
福井に来てから二日の間、東京都練馬区に生まれ育った母・千鶴はあまりのカルチャーショックに、明音や、電話越しの誰か(多分おばあちゃんか麻美叔母さん)に愚痴をこぼしっぱなしだった。
それがぴたりと止んだのは、三日目の土曜、深川一家と出会ってからだった。社宅代わりの借家とは言っても、ご近所への挨拶回りを欠かすわけにはいかない。千鶴は区長さんに遠藤家が属する町内の班を教えてもらい、一軒一軒包みを持って回った。深川家は三軒先だった。“FUKAGAWA”とローマ字の表札がかかっていた。出てきたのは、千鶴と同じくらいの年齢の女の人だった。
千鶴が差し出した包みを、ご丁寧にすみません、と彼女は遠慮がちに受け取りながら、千鶴の後ろに隠れていた明音と洋太に目を向けた。
「何年生?お名前は?」
とにこやかに聞かれ、洋太は意気揚々と進み出て、
「5さい!おれまだようちえん」
と胸を張った。明音も、千鶴に背中を押され、少し前へ出て、
「遠藤明音です。もうすぐ二年生です、この子は洋太です」
と、ぺこりと頭を下げた。あら、と女の人は少し驚いた顔をすると、
「すごくしっかりしてるねぇ。うちのと大違い。新二年生やったら、下と同じやわ」
というなり、振り返って、「伸太郎、里花(りか)」と声をかけた。
どうやら、彼らは廊下のすぐ向こうの部屋のドアが開き、待ってましたとばかりに姉弟が飛び出してきた。