「いえいえ、大した事は……」
それから、二、三、身の上の話を質問された。社交的な会話なのだが、自分の境遇を吐いてしまうのは、想像以上に不安が和らぐ。話の流れで、僕は一つ質問をした。
「その味噌、美味しいんですか?」
言った直後に、聞き方がまずかったと気付く。まるで馬鹿にしているようにも聞こえるではないか。言い間違いを正そうとすると、お婆さんは、ううん、と唸った。
「使い途にもよるけど、うちのお味噌はいつもこれね」
正すタイミングを逸し、僕はごにょごにょと唸った。しかし一歩だけ勇気を出して、言った。
「あ、なるほど、使い途……。もう少し質問しても良いですか?」
見えたのは朗らかな笑顔。職場とは正反対の立場になって、僕はお婆さんに味噌のいろはを教わった。僕は味噌についてだけでなく、自分が普段の食事について、如何に無関心だったのかを知った。僕という人間がこうまで無知で、しかしそれでも生きていけたことを知った。それは、こうして誰かと繋がっていたからだ。あの小説の山林で、ライバルの彼が思い知ったのと同じことに僕は気付いた。人間は、どうしようもない弱みを持っていて良いのかもしれない。
あの小説のように、ここから僕の快進撃が始まるかは分からない。だが今日という日、この何でもない日が、僕の人生に大きな転機をもたらしたのは、間違いない。
そうして僕は、スーパーの前でお婆さんと分かれ、バスに乗って帰路に就いた。今夜は手製の味噌ラーメンを作るとの話で纏まり、やや塩味の濃い味噌を買った。今回は具材も買い揃えている。満足だ。久しぶりに多くの買い物をしたのと、一日分の疲れとで、僕は座席で安らかに眠ることが出来た。嫌な思い出もあったが、それ以上にいい日だった。
上機嫌でアパートに着くと、郵便に一箱の段ボールが届いていた。差出人は母。二カ月経って初めて、何の連絡も無しに仕送りとは驚く。しかし、こんなに薄い段ボールに何が入っているのだろうか?
部屋に入り、箱を開けて僕は苦笑した。そこには味噌味の袋麺と、レトルトパックのご飯が数個ずつ入っていたからだ。
今日は合わせ味噌にしよう。締めはご飯だ。
一月ぶりのおふくろの味は、やはりケミカルな味がした。
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