景義は、もしかして自分からその話を切り出さない事に、彼女が怒っているのかも知れないとも考えた。けれどもしそうならば、今までの様にあの券に一言書いて渡せば済む事だ。景義はそうしてくれる事を少し望んでいた。あの公園に連れて行く事に券を使ってくれたら、そんなに楽なミッションは無いからだ。
しかし、そんな二人の関係は唐突に終わりを迎える。景義は二ヶ月後の四月、六年生になると同時に母親の故郷である札幌へ引っ越し、祖父母と一緒に暮らす事になったのだ。景義の事を考え、小学校を卒業するまでは、と何とか頑張ってきた母親だったが、女手一つでの東京の生活は、もはや限界だった。
担任からクラスメイト達にその事が伝えられた日の帰り道、景義は久しぶりに、杏菜に呼び止められた。彼女は景義に最後の「何でもやってあげます券」を差し出した。そこには「引っ越しをやめなさい」と書かれていた。景義はそれを受け取らず、静かに首を横に振った。
「こればっかりは従えない」
「どうして?」
景義を見据える杏菜の瞳は揺れていた。
「俺一人で決められる事じゃないから」
景義の言葉に杏菜はうつむいた。
「これはノーカウントで。何か他の指示を・・・・・・」
「嘘つき」
そう言った杏菜の両目から涙の粒がこぼれ落ちた。彼女は景義を追い抜くようにして、そのまま走り去ってしまった。
少し遅れて居酒屋にやって来た景義は、店員に広い座敷の個室へ案内された。十五名程の男女がビールや唐揚げの軟骨を口に運びながら和気あいあいと話している。
初めての同窓会だった。景義の通っていた小学校は生徒の減少により今年で廃校になってしまうのだ。せっかくだから記念に一度くらいは集まっておこうと生徒の一人が音頭を取り、今回の場が設けられたのだった。景義は高校を卒業すると同時に、就職で東京に戻って来ていた。
奥の方に座る女子生徒の一人が景義に気付き、「こっちこっち」と手招きする。言われるがまま彼女の向かいにあたる空席に辿り着き、景義は思わず固まってしまった。隣に杏菜が座っていたのだ。景義を呼び付けた女子は隣の女子と顔を見合わせクスクスと笑っている。
「・・・・・・久しぶり」
「久しぶり」
杏菜は相変わらずアゴをツンと上げ、景義を見下ろす様に言った。あの頃の面影をとどめつつも、杏菜は美しく成長していた。
景義は彼女にどう話しかければいいのか分からなかった。あの日、「引っ越しをやめなさい」という指示を拒否してからというもの、杏菜とは結局一度も口をきかないまま別れてしまっていたのだ。
「ずいぶんイケメンになったじゃない」
短い沈黙を破ったのは杏菜だった。
「生意気ね」
そう言って彼女は微笑んだ。杏菜はもう怒っていない様だった。小学生の頃の話なのだから、当然と言えば当然かも知れなかった。けれど、景義は今日に至るまで、ずっとあの日に杏菜が流した涙を忘れられずにいたのだ。景義は、長年の胸のつかえが取れたような気がした。
周りを忘れて思い出話に花を咲かせた二人は、同窓会の後も連絡を取り合うようになった。そして景義はあの夕日の公園に再び杏菜を誘った。「またあそこに連れて行ってね」と言われ「いいよ」と応じたにも関わらず、約束を果てせずじまいになっていたからだ。