杏菜はまるでトランプでも扱うかのように、「何でもやってあげます券」を扇形に持ち、ひらひらとさせた。
「五枚もあるし」
彼女はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。景義は背筋がゾクリとした。「何でもやってあげます」は失敗だったと、彼は心底後悔した。
それから、杏菜は大体一週間に一度のペースで「何でもやってあげます券」を使った。
彼女は券の余白に指示を書き込み、その都度景義に手渡した。最初の指示は「私のランドセルをうちまで運びなさい」というとてもシンプルな内容で、景義は難なくそれをこなした。どうやら杏菜は手始めに簡単な指示を与え、景義がどれくらい真面目に取り組むかを試した様だった。幸か不幸か杏菜に認められた景義には、程なく次の指示が与えられた。
東京には珍しく大量の雪が降り、校庭を含め街が真っ白に覆われた日の事。景義が杏菜から手渡された券には「私の家の庭に、この街で一番大きな雪だるまを作りなさい」と記されていた。景義は困惑しつつも、放課後に彼女の住む豪邸へ行き、その広大な庭でせっせと雪を集め、夕方頃までには二メートル超の立派な雪だるまを完成させた。縁側で暖かい紅茶を飲みながら作業を見守っていた杏菜は、「まあまあね」と満足げな様子を見せた。
三枚目の券を渡された景義は深いため息をついた。そこには「私をおんぶして、私の家まで連れて帰りなさい」と記されていたのだ。杏菜は家の階段でつまずき足を捻挫していた。朝、松葉杖姿で登校してきた彼女の姿を見た時から、景義は既に嫌な予感がしていたのだ。
杏菜はどちらかと言えば痩せていたが、小学生に小学生のおんぶはかなりの重労働だった。体が密着し、ふんわりと彼女の良い香りが鼻をくすぐる。普通ならドキドキしてしまうようなシチュエーションだったが、その時の景義にそんな事を意識する余裕は全く無かった。激しく息を切らし、立ち止まりそうになる景義の耳元に、「今回はギブアップでもいいよ。ノーカウントにしてあげる」と杏菜は何度も囁いた。けれど景義はかたくなに首を横に振った。彼としては、杏菜に早いところ券を使い切ってしまって欲しかったのだ。
体力には多少自信のある景義だったが、無事杏菜を家に送り届けた時には精も根も尽き果てていた。彼女の姿が扉の内側に消えた後も、景義はひざに手をつき、しばらくその場を動けなかった。
捻挫がすっかり治った杏菜の次の指示は「私をこの町で一番夕日がきれいな場所に連れて行きなさい」というものだった。もちろん景義にそんな場所は分からない。彼は数少ないクラスの友達や母親に近所の夕日スポットを尋ねたが、予想通り誰からも役に立つ情報は得られなかった。
景義は仕方なく図書室にあるこの町の地図やインターネットの情報を元に近所の高台をしらみつぶしに調べ、やっとの思いで理想的な場所を見つける事が出来た。そこは住宅地の丘のてっぺんにある、滑り台と砂場だけの小さな公園だった。西側の街並みを眼下に一望でき、公園と下り斜面の境界には観光地の展望台の様に鉄柵が設けられている。ここなら間違いないと確信した景義は、翌日の放課後に早速杏菜を誘い、再びこの公園を訪れた。
一月の日没はとても早い。二人が到着して程なく太陽は地平線に接し、空や街並み、景義や杏菜の体を含む全ての物をだいだい色に染め上げた。景義は隣に立つ杏菜の方を見た。彼女は沈みゆく太陽を、瞬きすら惜しむようにじっと見つめていた。