「この子、どうしよう。おなかすいているよね。死んじゃうよね。」
ミチコが言うと、友達は首をふった。
「死んじゃうと思う。でもうちはもう犬を飼っているから、ダメ。連れていけない。ミチコちゃん家はどう?」
小学校からの帰り道、子供のミチコは、友達と河原で捨て犬を見つけたのだった。
段ボールに入れられて、か細く啼いている小さな子犬。あばら骨が浮き出て、放っておけば死んでしまうのは子供の眼に見ても明らかだった。
「じゃあ、うちで飼う。」
以前からペットはダメ、と母に言われていたが、咄嗟に言い切った。命を大切にしなくちゃいけないって先生も言っていたもの。お母さんだって、きっとオーケーしてくれる。
子犬は、3年生のミチコが簡単に抱き上げられるほど軽かった。ミチコの両腕にやすやすと受け止められて、小刻みに震えているのがわかった。
「よしよし。もう大丈夫。もう寂しくないからね。」
この子を護れるのは、私しかいないんだ。使命感で胸が張り裂けそうになりながら、ミチコは家に帰ると、友達に分けてもらったドッグフードをふやかして子犬に与えた。子犬は無我夢中で器に顔を突っ込んだ。
母がパートから帰ってくるのを待ちながら、これから始まる子犬との生活を考えると、頬が上気するのを感じた。まるで弟ができたみたい。そうだ、名前をつけてあげなくちゃ。
「あなたの名前は、クウ。空腹のクウね。あ、でも、よく喰う、のクウでもあるわね。すごい喰いっぷり。」
くすくす笑うと、子犬は器から顔を上げて、初めて一対の茶色い瞳でミチコを認めた。短いしっぽが千切れんばかりに振られている。
ミチコの期待に反して、疲れて帰ってきた母は猛反対した。
「どうして勝手にうちに入れるの!誰が面倒みるのよ!犬の世話なんて食事と散歩くらいだろうって思ったら大間違いなんだから!ワクチンに去勢に、ものすごい大変なんだから!」
ミチコは父を味方につけようと思ったが、父は犬嫌いでもっと嫌がった。
「嫌だ。家が汚くなる。」
「もういい!このままじゃこの子死んじゃうのに!お母さんもお父さんも自分のことばっかり!最低!」
感情を昂らせたミチコは、子犬を抱いて家を飛び出した。夜に家を飛び出したら、きっと心配して探しにきてくれるだろう。そうしたら、この子のことだって許さざるをえなくなる。強引で我儘な行動だった。
母はミチコの思惑通りにミチコを探しあて、ミチコが帰る条件として犬を飼うことを認めた。帰りながら、母は言った。
「ミっちゃんにできないことは母さんがするけど、散歩だけはきっちりやって。約束よ。」
父のことは、母が説得してくれた。
「ミチコにとっていい経験になるわ。自分の言動に、責任をもつことを学ぶいい機会よ。だから許してあげて。」
小学生のミチコは母と約束した通り、毎朝必ずクウを連れて出かけた。
クウの散歩のために早起きを始めた朝、眠い目をこすってリビングに降りていくと、母はミチコよりも早く起きていて、ドリップコーヒーを淹れていた。翌日も、翌々日も、ミチコが降りていくと、台所には既にコーヒーの香りが満ちていて、まだ誰も起きていない時間にここでゆっくりひとりの時間を過ごすのが、母の日課なのだと知った。
ミチコは、そんな朝の台所を「お母さんの時空」と名付けた。学校の先生が、時間と空間を合わせると、「時空」になるのだと言っていたのを思い出して、ぴったり当てはまると思ったからだ。
母は「時空」から顔を出すと、「約束まもってえらいね、行ってらっしゃい」と手を振った。
クウと近所の堤防に出ると、朝日がミチコの頬から眠気を剥がしとっていくように照り付けた。
もうすぐ夏だ。クウを飼い始めたこの年、ミチコは運動会のリレーの選手に選抜されていた。だからクウとの散歩は、走る練習でもある。
「クウ、行くよ!よーい…ドン!」
軽い足取りでクウが走り出す。どんどんスピードは上がり、ミチコもそれに追随する。ミチコの手の平に、リードを通じてクウの躍動が伝わってくる。ミチコはクウと同化するように、素早く足を交互に投げ出し、前へ前へと風を掻く。
クウの垂れ耳が風に乗ってふわりと広がり、後ろから見ていると、小さな飛行機みたいだ。ふたりは一対の飛行機になって、空と道の交わるところめがけて飛んでゆく。
その時、ミチコには時々自分を振り返るクウの心が、確かに聞こえた。ミチコはその声に頷き、いつまでも一緒だよと応えた。
輝く空と銀の川面と、どこまでも続く道。「私とクウの時空」だった。