アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。
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淡い階調の中にゆるゆると暮れはじめる空は、春がもうすぐそこまで来ていることを告げている。そのやさしいピンク色の自然光の下に建ち並ぶ新築の家。できたばかりのニュータウンの景色は透明感に溢れて、まるでジオラマ写真のようだ。そこに寝起きする若い家族たちと、よく似ている。みんな揃って、しかしそれぞれの形で、未来に向かって前傾姿勢をとっている。枝々の先端を硬く尖らせ開花を待つ、桜の樹みたいに。
手袋を外すと、まだ少し肌寒い。家の鍵をまさぐる時はいつも手間取ってしまうミチコだが、この日は、ドアの様子がいつもと違うことに気がとられた。注意を集中させると、ドアについた曇りガラスのすぐむこうに、何か気配がある。
なんだろう。友達でも連れてきたのかな。
既に帰宅しているはずの息子のカケルを案じながら、そっとドアを開けると、室内から外に逃げ出した温い空気と共に、生臭い匂いが顔を直撃し、ミチコは思わず鼻を押さえた。見ると、ランドセルを框に放り投げたままのカケルが、珍客と玄関に座り込んでこちらを凝視している。
―――犬。
しかもまだ小さな子犬だ。悪臭は、皮脂で束に固まった茶色の体毛の間の、赤らんだ皮膚から無遠慮に立ち上がってくるものだった。ミチコは珍客の正体がわかると、玄関タイルを汚されるのではないかという懸念がまず先に立ち、息子に対して咄嗟に叱った。
「ちょっとどういうこと?どうして勝手に家に入れるの。汚いじゃない。」
汚い、という言葉の棘に少し驚いたような眼をしてミチコを見上げながら、カケルは子犬を抱く手に力を入れる。
「お母さん。この子、うちで飼いたいんだ。捨てられていたんだよ。」
「何言ってるの!無理よ。」
「でも、怪我してるんだ。このままじゃ、死んじゃうよ。」
ほら、と手で覆っていた子犬の後ろ足の大腿を見せると、確かに少し血が滲んでいる。
ほんとうだ。とはいっても、だからといって飼うという結論に結び付けるのはいかにも安直で、怪我は口実なのだということをミチコはすぐに見抜いた。これは、罪悪感を梃にした駆け引きなのだ。飼えないこちらの都合をミチコの口から封じ込めるための。
本当は、カケルは自分の犬が欲しいのだ。だからこそ、簡単にはひかないだろう。ミチコは考えあぐねた。犬を飼うということは命の責任を負うことであり、飽きたからといってやめるわけにはいかない。それが家族全体を巻き込むことであることを、きちんと説明しなくてはいけない。
「飼うのはダメ。今日はもう仕方がないからうちに泊めていいわ。でも明日になったら母さんが保健所に連れていく。そこで新しい飼い主を探してくれるわ。あとでゆっくり話しましょう。」
「飼い主が見つからなかったら、この子はどうなっちゃうの?」
それは―――ミチコは言葉に詰まったが、カケルはその答えを理解した。
「ねぇ、ちゃんと僕が面倒みるよ。毎朝散歩もするよ。」
縮こまる子犬を抱きしめてカケルが懇願する。
仮に飼ったとして。毎朝遅刻ぎりぎりのカケルが、本当に世話をするのだろうか。最初だけだろう。そして結局、ミチコが面倒をみることになる。
「さぁ、続くのかしら。とにかく、あとでね。」
ようやく手に入れたマイホーム。諸々の手続きが終わり、まだ始まったばかりのこの家での生活。そこに、とんだ闖入者だ。まだ光沢を放っている床は、駆け回る子犬の細い爪で、あっというまに傷だらけになるだろう。ドアを開けるとふんわりと漂う木造住宅の香りは、ひと月もすれば、けもの臭くなってしまうだろう。
ミチコが思い描いていた生活に、犬の存在はなかった。それなのに自分に相談する前に、カケルが犬を家にあげてしまったことに、ミチコは腹を立てていた。そのことをカケルにわからせようと、わざと大きな音をたててドアを閉めた。
ドアの向こうですすり泣きが聞こえる。まるでカケルが、捨てられた子犬みたいだ。
あのまま少し落ち着かせよう。夕食の支度にとりかかりながら、ミチコはため息をついた。そして、実家で飼っていたクウのことを、嫌でも思い出した。