【ARUHIアワード12月期優秀作品】『しじまをぬけて』菊武加庫

 もう少し話をしていたい気持ちもあるけど、ノーメイクで、髪はぼさぼさ、湯冷め防止に部屋着で着膨れている。客観視すればいっときも早く切り上げるに越したことはない。お茶を飲み終わり、「じゃまた」と立ち上がる。
 だけど――。
 志保の声がまた戻ってくる。私もガンと行ってみていいかな。失敗するかもしれないけど。お茶飲み過ぎなのに喉がカラカラだ。
「あの――、水野君、連絡先聞いてもいい?」

 日々の生活に何の不満もないけれど、たった一日お風呂が故障しただけでちょっとだけ日常が動くなんて不思議だ。何かが始まるようでもあり、それは錯覚のようでもある。
 子どものとき、ぴんと張った真っ白な障子に穴をあけ、そこから外を見たことがある。年末張り替えたばかりだったのにと祖父からひどく叱られた。だけど小さな穴から陽が射したかと思ったら、ちらちら雪が舞い始めたのが見えて、わくわくしたのを友香は忘れられない。祖父自慢の開閉式の雪見障子だった。雪見の仕方が間違っていると、家族中から叱られた。
 今日は障子をちょっと破いたあの日のように少し違う日になった。これからどうなるかわからないけど。
 友香の心に残っていた中学生の正人が、実像の正人と同じとは限らない。多分違うのだろう。近づくと案外つまらないものもある。だけど破れたり、綻んだりしたところから、また何か見ればいいのだ。
 マフラーをぐるぐる巻いてエンジンをかけた。
 寒空に星が美しい。母が好きな「冬の星座」を口ずさみながらアクセルを踏む。たまの綻びはいいけど明日は家の風呂にゆっくりつかりたいとか、どんなタイミングで志保に今日のことを話そうかなどと考えながらハンドルを握る。
 「ものみないこえるしじま」が「もの皆憩える静寂」と理解したのは最近のことだ。それはこういう夜のことかと家の灯りへと急いだ。
 明日からロッカーのスマートフォンの履歴が少し気になるかもしれない。そうなるように、ちょっと頑張ってみよう。
 友香はもう一度大きく息を吸って静寂をくぐりぬけた。

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