【ARUHIアワード12月期優秀作品】『しじまをぬけて』菊武加庫

「本当にいい人だよね。お似合いだと思うよ」
 お世辞でもなんでもなく言える。ちなみに志保が正人とつき合った過去はない。いい人で影が薄い人のサンプルでとして引き出されただけなのだ。

 その水野正人が目の前にいる。
「水野君、今何してるの」
「公務員。花の品種改良の研究をしているんだ」
 正人が実は優秀だったことを友香は憶えている。
「すごいね」
「佐野さんは?」
「店舗とかイベントのディスプレイってあるでしょ。ああいうことをしてる。まだ一人前とは言えないけど」
 美大を出て、芸術としての造形は諦めたけど、こういう道を見つけた。大手ではないが、ぼちぼち小さい仕事はある。続けていれば端っこで生きていける。
「すごいね。ああいうのを作っているのはどんな人達だろうと思っていたけど。そういえば佐野さん、絵が上手かったよね」
 憶えていてくれた。そして昔と同じように、にこにこといったふうに笑う。

 中二のとき、小さな事件があった。
 全校朝会から戻って来たら教室の床に墨汁が撒かれていたのだ。担任の先生が体育祭の看板を書くために用意していたものだった。
「犯人さがしはしません。もし、このクラスの誰かが何か知っているなら言いに来てください」
 先生は無駄なことを言ったが、クラスのもやもやは残った。
「また男子の悪ふざけに決まっているって」
「みんな全校朝会で体育館にいただろ。いいかげんなこというなよ」
「ほんとにいたかどうかわかんないし」
 刺々しいやり取りが続いた。
 そのうち、青山(あおやま)由依(ゆい)という女子が体育館で貧血を起こして一足先に教室に戻り、早退していたことがわかった。
「教室に入った時に変わったことはなかったし……」
 翌日由依はふてくされたように言った。そのころ彼女はバレー部を退部して孤立し、授業をさぼることもあった。つまり少し荒れ始めていたのだ。
「あの時間教室に入ったの、今のとこ青山だけだもんな。なあ」
 男子対女子の言い合いに熱くなった一人の男子が、なぜか正人の方を向いて同意を求めた。珍しく注目が集まった正人は困惑していた。だが、しばらくしてやっと口が動いた。
「そんなことわかんないよ……ねえ」
 拍子抜けしたように少し変な間があって、「そうだよね」という空気になり、クスクス笑い出す人もいた。正人の声は何の正義感も帯びていなかった。
わからないからわからないと言った、それだけだった。
 結局数日後、隣のクラスの男子が、同じようなことを別の教室でやろうとして見つかった。由依の容疑も晴れて、ばつが悪そうに謝る男子もいた。
 実はこのときから正人のことをずっと気にして見るようになったのだ。あれこれ推理しないところが、友香の目には好ましかった。事実だけを見ているところがシンプルに信頼できた。単に腰が引けていただけかもしれないし、面倒だったのかもしれないが、友香の目には安心できる人柄として映った。
 だが、気にはしていても何ひとつ起こらないまま卒業を迎えた。卒業して春休みにクラスで集まったとき、殆どの人が初めて持たされた携帯電話の連絡先を交換していた。そのときも声をかけそびれた。上原君のようなスターの方が話しかけやすく、正人のまわりは静かでかえって声がかけられなかった。
 そのまま正人は市内で一番難しい高校に入り、そこからふたりの生活は一度として交わることはなかったのだ。
 さすがに今まで何人かとつきあうことはあったけど、最後は二年前に終わった。別れてすぐその人がほかの人と結婚したことがわかり、思いのほか自分が傷ついていることを受け入れるのに時間がかかった。
 卒業して十六年、正人の顔もいつしか思い出すことすらなくなっていた。それがなぜ、こんな所で、こんな化粧もしていない、風呂が故障したさえない状況で顔をつき合わせているのか。不思議と楽しい。

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