【ARUHIアワード12月期優秀作品】『しじまをぬけて』菊武加庫

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 母の久子(ひさこ)からメールがきていた。
ロッカーから取り出したスマートフォンに、一件だけの履歴がうかびあがる。
 友(とも)香(か)の会社では就業中、携帯電話をロッカーにしまっておくのが決まりである。私用電話を防ぐためと、様々な情報の漏れを阻止するのが目的らしい。さほど大きくもないオフィスにそんな大層な機密があるとも思えないが、小さいなりに顧客名簿や会計簿があるというのが理由なのだろう。
 不便かと言えば、一日の半分以上を社外で過ごす友香にしてみれば、あまり、不自由は感じない。仕事関係のメールはパソコンに届いて朝夕のチェックで足りている。
 近しい人たちは友香のこういった事情を知っているので、殆ど昼間の履歴はない。もともと友人が多いほうではないのだ。
 ましてや母からのメールなど、月に一度あるかないかだ。三十を過ぎて母との同居はなかなか難しい。距離を置いて、なるべくそっけないくらいの関わりを心掛けねばうまくいかない。東京を引き上げて帰った当初はその距離感がわからず、お互い子ども時代のように近づき過ぎて失敗した。なにごとも失敗から学習するものだが、長居は禁物だ。早く独立しなければと言い聞かせる。
 言い聞かせながらメールを開く。嫌な予感がする。
【お風呂のお湯が出ません。今日中の修理は無理とのことです。私はお風呂屋さんに行きます。営業時間は多分どこも九時までです。】
(え……?!)
 久子のメールはいつも句読点を律儀に入れる上に、微妙に話し言葉ではなくぶっきらぼうな印象だ。感じが悪いと言っても直す気がない。
「小学校のとき、作文の授業でこう教わったのよ。あなたたちのほうがおかしいの」
 昭和のちょうど真ん中くらいに生まれた久子は聞かない。固定電話すらなかった子供時代から、鉄腕アトムのいる未来にワープしたようだと言う。なぜかワープという言葉は知っている。職場で流行ったのだろうか。
 それにしてもお湯が出ない?【了解】と返してちょっと呆然とした。
電話だけではない。すっかり便利な生活に慣れていて、お湯が出ないのは今や一大事だ。便利なものほど故障をすると融通が効かないのはわかっているが、今さら薪をくべる構造に戻すわけにもいかない。真夏なら思い切って水風呂という手も究極的には考えてみただろうが、今朝、県内で初雪が観測されたとニュースで言っていた。無理だ。ノー残業デーだが、帰りにぶらぶらするのは諦めた。

 帰宅すると久子がすでに化粧を落としてタオルや着替えを準備していた。
「お風呂が使えないなんて久しぶりよねえ。部品の交換で済むんじゃないかって。一安心だわ」
 気のせいか若干ウキウキしている。
「子どものとき、前の給湯器が壊れたことあったね」
 小学生だったなとぼんやり思い出しながら、独り言のように返す。
「私が小さい頃は毎日銭湯だったらしいのよ。憶えてないけど四歳くらいまで税務署の官舎っていうの? そういうとこにいて、当時は風呂無しが普通だったらしいから」
 祖父は税務署に勤めていた。
「今の新婚さんは絶対そんなところに住めないでしょうね」などと、話が逸れて長くなりそうなので本題に戻した。
「どこのお風呂に行くの」
「『緑町温泉』。近いし時々行ってるから」
 十五年ほど前、市役所が移転することになり、取り壊す段階で建物の下から温泉が出ることがわかった。それが「緑町温泉」だ。
 それまで市役所だった建物は、無理矢理な改築で温泉施設に変貌を遂げた。友香の住むK市は有名な温泉地に囲まれているにもかかわらず、それまで温泉が出たことはなかった。なのに、さすが火山列島だ。まだまだ未知の温泉があるような気がする。
 温泉は今ではすっかり市民の生活に定着した。住民割引があって、特に七十歳以上は百円!という価格設定が喜ばれており、多くのお年寄が家の風呂代わりに通っているらしい。

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