【ARUHIアワード12月期優秀作品】『しじまをぬけて』菊武加庫

「友香はどうする? 行く?」
「……私? …… やめとく。『あけぼの湯』に行く」
「そう。ちょっと遠いから湯冷めしないようにね」
 冷え込んでいるし、近い方がいいに決まっている。だけど「緑町温泉」には必ず知った顔がいるにちがいない。近所のおばちゃん、もしくはおばあちゃんと全裸で向かい合って、しかもこう言われるのだ。
「友ちゃん、結婚はまだね?」
 絶対に避けたい状況だ。しかもすぐ近くに母がいて、「どなたかいい人いませんかねえ」などというのだ。最悪だ。
「それって立派なハラスメントだからね」と言いたいが、そんな正論が通じる人たちではない。
「カタカナはわからん」とかなんとか、とぼけるに決まっている。
 そそくさと入浴セットを支度して車のエンジンをかけた。戸建て住宅が並ぶ団地の坂を下っていると、黄色く染まったプラタナスの大きな葉が、北風に吹き上げられて舞っている。車の窓を閉めていても、かさかさと乾いた音が聞こえるようだ。
 
 「緑町温泉」が完成した直後、隣町でも温泉が掘られた。それが「あけぼの湯」だ。温泉ってそんなに簡単に掘り当てられるものなのか、本当にそれは温泉なのかと当時はずいぶん話題になった。
 銭湯という体裁の「緑町温泉」に比べると、こちらはずいぶん今風な造りになっている。小さいがサウナがあるし、ジャグジーもある。一番違うのが、休憩場所を広くとっているという点だろう。浴室よりもずっと広い休憩場には四人掛けのテーブルが8セットは置かれている。殆どの来場者が入浴後、ここで休んで行くので大抵満席だ。相席になることが多いが、短時間なのであまり気にせず、皆飲み物やアイスで体を冷ませてから帰る。
 温泉に入るといつも友香は不思議に思う。浴室で見かけた人が、一歩外に出て服を着ると、もうわからない。もちろん風呂場でジロジロ見ることはないから、しっかり印象付いていないのかもしれない。だけどそれを差し引いても、人の印象は服の個性や髪を乾かした後の様子で、全く別の人になるのだろう。風呂上がりに「さっきのあの人」を見つけるのは存外難しい。
 そうは言っても「緑町温泉」に入ったら、絶対見逃してはもらえなかっただろうと、どうでもいいことを考えながら友香は久々の長湯を堪能した。
 
 満席のテーブルがやっと空いたのでペットボトルのお茶を持って腰かけた。億劫だったけど来てみると思ったよりも楽しい。
「ここ空いていますか?」
 向かいの椅子に手をかけて男が遠慮がちに尋ねてきた。
「はい、どうぞ」
 事務的に答えた後、目の前に座った若い男の顔がちらりと視界に入った。温厚そうな顔立ちに見覚えがある。知った顔だ。わざわざ隣町まで三十分かけて運転して来たのに知った顔がいた。声をかけようかどうしようか迷って、「あの……」と友香が声を発すると同時に、目の前の男が驚くように話しかけてきた。
「佐野さん? 佐野さんだよね。み……」
「水野君? 久しぶり」せっかちにかぶせるように言ってしまった。
「今自宅にいるの?」
 水野(みずの)正人(まさと)はペットボトルを開けながら聞いてきた。
「うん。水野君も?」
「うん。近いのに全然会わないね」
「本当だね。よく来るの、ここ」
「うん。おばあちゃん腰が悪くてさ、温泉に入ると少しはいいらしい。緑町の方飽きたらこっちに来る。いつもは母が連れて来るけど今日は仕事だから」
「そうなんだ」
 正人の祖母は家で書道を教えていて、背中のしゃんとした人だった。さっきまでいた浴室でそれらしき人には気づかなかった。やっぱり服を着ていないとわからないものだと、まさかの展開で持論が裏付けられた。サングラスより、マスクより、温泉の一糸まとわぬ姿のほうが身を隠すには有効だとは盲点である。
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