本当に何にもわかってない。
私にとっての幸せとは、母のそばに居れること以外のなにものでもないのに。お金のこと、転校のこと、離婚に対する世間の目。気にならないと言ったら嘘になるけど、母の前ではそれらのどれもが意味をなくしてしまう。お互い不器用で喧嘩もたくさんするけど、私は生まれた時からどうしようもなく母が好きなのだ。
若くして私を産んだ母。娘の私が言うのもなんだけど、母は綺麗で可愛くて一人の女性として、とっても魅力的だ。幼い頃はそんな母が誰かに取られてしまうんじゃないかと怖くて堪らなかった。母が家にいないことが不安で、寝ないで帰りを待っていた。夜遅く、パートから帰ってくると、ギューっとわたしを抱きしめてくれた。いい匂いがした。それが私の全てだった。多分、それは大人になった今でも変わっていない。
「いい写真だ。」彼が言う。
「そうそう、この日は雲ひとつない晴天でねぇ」
「見たこともない青空だった」
そう言うと彼は私たちの顔を交互に見て、
「う~ん、そうかなぁ?」と言った。
「…え?」母も苦笑いしている。
彼は普段、余計な一言を口にする人ではない。そもそも、今のやりとりのどこに引っかかったのだろう。写真には誰がどう見ても綺麗な青空が映し出されている。
「眼鏡の度数、上げなさいよ!」と言い放った。
「いや、違うよ、そうじゃなくて」
「???」
「空と記憶の話だよ。」
空と記憶…?
「空と記憶、正しく言うと空の記憶はその時の人間の心を表しているんだよ。例えば、好きな人に告白して良い返事がもらえた時、僕はその日、自転車で坂を下りながら、なんて綺麗な空なんだろう、やっほー!って心の中で叫んだこと、覚えてる」
少し、はにかんでいるのは好きな人が私のことを指すからだろうか。
「逆に、大学受験で大失敗した日、光が1mmも差し込む隙間がないくらい分厚い雲が覆ってた。あぁ、僕の人生、お先真っ暗だ、と思ったよ。ついてない日はとことんついてないんだって。でも、そうじゃないんだ。僕たちの都合にお天道様がいちいち合わせてくれるはずないよなって。多分、楽しかった日は晴れ、悲しいことがあった日は雨っていうふうに人間は空の記憶を脚色して保存しているんだよ。」
空、心、記憶。
ふーん、なるほど。理系の眼鏡君の話はいつも理解できないけど、今の話はなんとなくわかる。
確かに…
私は今までの良い思い出と悪い思い出を振り返る。
修学旅行、初デート、合格発表。季節はバラバラなのにどれも太陽の木漏れ日と共に思い出される。
彼にフラれた日、バイトで失敗した日、親友と喧嘩した日。それらの出来事のどれもが、灰色の背景と共に思い出される。それから、あの日も…
言わなきゃ。今、言わなきゃ一生言えないだろう。
「お母さん」
「ん?」
「この写真を撮った日、生きてきた中で一番、空が綺麗だった。」
「うん。わたしもそう。」
「お母さんに、こんな家に生まれてくるんじゃなかったって言っちゃった日、あの日の空は…見えなかった。上を向くことが、できなかったから。」
「今まで育ててくれて、私のそばに居てくれてありがとう。ここを離れても、この家での思い出とあの日の空は忘れない。」
私の眼をじっと見つめた後、ギュッと抱きしめてくれた。久しぶりの母の匂い。
「二人ともおめでとう。どうか、幸せになって」そう言った後、照れ隠しに
「×一個までならいいよ、あたしもそうだし。」
泣きながら、笑うように、母は言った。母がもう二度と私に申し訳なさそうな顔をしませんように。
窓を打ち付ける雨の音。やや、蚊帳の外に置かれ気味だった彼が入ってきて、
「今日が満点の星空だったと記憶しておきます。」と言った。
久しぶりに豚肉のすき焼きが食べたくなった。
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