結局、教室にたどり着くまでの間、切り出すことができなかった。理科の先生はこともあろうか、転校生をクラスに馴染ませようと、積極的に私の名前を指名した。その日、その子はもう話しかけてこなかった。
「はぁー、すき焼き~!ただいま~」
「ただいまが先でしょ、すぐご飯にする?」
「う~ん、ちょっと疲れたから、お風呂にする」
お風呂に入ってさっぱりしようとしたけど、何だかドッと疲れが襲ってきて、気を抜いたら眠ってしまいそうだ。楽しみにしていたすき焼き(と言っても豚肉だけど)も思ったより箸が進まない。
「学校、どうだった?」
「…うん。」
「うん、って、友達できた?」
「まぁ、ボチボチ」
「…。」「…。」
「お母さんは?仕事どうだった?」
「ふつうよ、みんなふつうにいい人。」
「そっか。」
何とも言えない、気まずい空気。母の申し訳なさそうな顔。
「…。」ガチャン。母が箸を置く。
「美月、あの、あのね、」
「お母さん」
「…えっ」
「明日、家の前で写真、撮ろ」
「写真?」
「うん。二人だけの新しい人生の始まりだもん。誰にも邪魔されない幸せな人生のね。」
母は少し驚いたような顔をしてあたしの眼を見てた。しばらく黙っていたが、やがて、穏やかな顔をして頷いた。
「よしっ!食べよ、食べよ!いつか、牛肉のすき焼きが食べれたら最高に幸せな人生だ」
「ふふっ。それは大層な夢ね。」
鍋の中の牛肉のすき焼きを見ながら思う。
あの頃、間もなく始まろうとしている娘との暮らしに喜びを感じている余裕などなかった。わたしにあるのは大人の都合で娘を振り回してしまった罪悪感。ないのは、それを満たしてやれるほどの幸せを与えられる自信。
高校を卒業してすぐに働き始め、若くして娘を授かった。結婚して10数年、あの人と一緒に居ても幸せになれないことは、もう、とっくに気づいていた。しかし、育ち盛りの我が子を女手一つで養える財力もキャリアも持ち合わせてないのは明らかだ。せめて、娘が高校を卒業するまでは、形だけでも夫婦として過ごそうと決めていた。それなのに、とうとう我慢できなくなって、言い合いの末に離婚という言葉を口にしてしまった。あの人もすんなり受け入れたので、後戻りできず、娘ときちんと話し合う時間も持たずに、この地に越してきた。
娘は何ごともなかったかのようにしているが、きっと、心の中は不満でいっぱいだったであろう。万が一、娘が離婚してほしくないと言ったり、父の元で暮らしたいなどと言えば、娘の意見を最優先にしようと決めていた。幼い頃から、日々の暮らしに精一杯で、何一つわがままさせてやれなかった、愛する我が子に。
転校初日、明らかに疲れ切って帰宅した娘を見て、平静を装っていた私は自我が綻びそうになった。娘に謝らなければと思った。
私が謝罪の言葉を口走ったとき、娘が何て言ってくれたのか、正直、よく覚えていない。ただ、思い出すのは、全てを許してくれるような優しい眼差しと、すき焼きの甘じょっぱい匂いと、次の日の空が生きてきた中で一番、綺麗だったということ。
鍋の中の牛肉のすき焼きを見ながら思う。
母はきっと私の気持ちなんて何一つわかっていない。私がここでの12年をどんな思いで暮らしてきたのか。