【ARUHIアワード9月期優秀作品】『いつかのターコイズブルー』八嶋 祥子

 てっきりその場で貸してくれるのかと思っていたのに、佐久間はじゃあ行こうかと歩き出す。
「ちょっと待てよ。俺もう帰るからお金だけ貸してくれたらいいんだけど」
「え? だってお金持ってないし」
「はあ?」
 さすがにいい加減にしろよこの野郎。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「お金持ってきてないってどういうことだよ」
「家この辺なんだよ。だから帰ったら貸してあげる」
 面倒臭い。早く帰りたい。そもそも今日は誰とも話す予定が無かったんだ。友達を誘うことだって出来たけどしなかったんだ。
「そういえば、今日は宮本くん一緒じゃないんだね」
 宮本くん。頭の中で繰り返す。
 宮本遼は近所に住んでいる幼なじみで、昔からいつも一緒にいた。傍若無人で、楽しい事をやりたい放題やる。そんな彼は人を引き寄せ、楽しませ、どこに行っても常に皆の中心だった。
 遼と一緒にいると、自然と友達も増えるし、生きやすい。でも同時にすごく息が詰まる。遊んでいても接待しているような気分になる時がある。きっと遼は俺がこんなこと思っているなんて少しも気づいていないのだろう。そういう鈍感さが羨ましかった。
「別に。いつも一緒にいる訳じゃないから」
 そうやって言葉を濁すと、佐久間はふぅんとだけ言ってそれ以上は聞いてこないようだった。


 十五分くらい歩いただろうか。不意に前を歩く佐久間が立ち止まる。おもむろにポケットから鍵を取り出して扉を開ける。
 俺は驚いていた。それは佐久間の家がすごくボロかったとかすごく立派だったからとかそういうわけじゃない。
「ここ何?」
「親父がやってる工房。集めたシーグラスはこっちに置いてるんだ。確か交通費くらいのお金ならこっちにあるし」
 そう言って、佐久間が工房の中に入る。
 波板で覆われた小さな工場のようなその建物には『(株)佐久間硝子』と掠れた文字で書かれた大きな看板があった。
 佐久間に手招きされて薄暗い工房の中に入る。ちりんちりんちりんと頭上で揺れる沢山の風鈴。右を見ると、売り物だろうか、ガラス製の綺麗なコップやお皿が並べてある。どうやら奥がガラス製品を作る工房になっているようで、見たことないような工具がいくつも見えた。
「ガラス、綺麗でしょ」
 後ろから声をかけられる。
「俺、将来ガラス職人になるのが夢なんだ」
「え、ガラス職人?」
「そう。本当は高校なんて行かずに仕事手伝いたかったし、行くにしてもガラス工芸習えるところに行きたかったんだけどお父さんに反対されて喧嘩して。で、結局高校までは普通のとこ行くってことで落ち着いて今ってわけ」
 不満な顔を隠そうともせず佐久間は話す。
 驚いた。俺は進学する高校を、模試の結果を見て偏差値と家の距離で決めたから、そもそも進学しないとか、普通科以外に進むとか考えもしなかった。
「高橋くんは? 将来何になりたいの?」
 その質問に、どきりとする。
「俺は、教師かな」
「へえ」
「うち両親が二人とも学校の先生でさ、だから、」

―だから
小学生の時、『将来の夢』がテーマの作文に軽い気持ちでそれを書いたんだ。
授業参観の日、親が見守る中で読み上げたその作文に母はすごく喜んでくれて、ああ、これで正解だったんだと思った。
 その後も、事あるたびに翠は将来私たちと同じ学校の先生になるんだものねと言われ、実はあの時何も思いつかなくてなんて、とても言えなくなってしまった。かと言って他になりたいものもなかったのでそれならばこれでいいか、とも思う。
 でもそんなこと、ちゃんと夢を持っている佐久間にはとても言えなくて。黙っていると佐久間が口を開く。
「そういえば夏休みはここで毎日吹きガラス体験やっててさ、明日までやってるから暇だったらぜひ来てよ」
 明日か。夏休みの最終日は、毎年遼から宿題の答えを見せて欲しいとヘルプの要請が来ることが分かっていたので予定を空けていた。俺が二時間くらいかかった問題集をものの十分で写して終わらせる。俺ばかり割を食うようで本当はすごく嫌だった。
 とはいえ、遼は夏休みもサッカー部の練習で忙しいため、連絡があっても十八時頃だろう。
「わかった。行くよ」
 佐久間からくしゃくしゃの千円札を受け取って、その日は帰路についた。

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