「もうじき台風がくるっていうのによく来たね。今日でなくてもよかったのに」
雪絵は入ってくるなり言うと、そのまま仏壇の前に座り焼香をして手を合わせました。春花は祈り終るまで黙って待っていました。
「はじめまして。誠さんには親しくさせていただいております」
春花は祈り終えて座卓の上座へすわった雪絵に向かって両手をついて挨拶をしました。
「それでこの机のうえの白い箱はなんだい」
「七十歳のお誕生日おめでとうございます。ケーキを作ってきました。お口に合うかわかりませんが」
「ああ、それでこんな日にわざわざやって来たんだね。誕生日なんて忘れていたよ」
雪絵はわずかに頭をさげましたが、箱を開けて中身を見ようとはしませんでした。
「母さん」と、誠が割り込むように口を挟んできました。
「春花さんと結婚したいんだ。許してもらえるかな」
前振りもなく誠は言いました。春花がきた用件はおおよその想像がついていたのでしょうが、いきなりすぎました。
「昭子さんのことはもういいのかい。忘れられるのかい」
雪絵は驚いてはいませんでした。話の内容などお見通しということなのでしょう。
「亡くなったのは十年も前のことだよ」
誠は心を隠すように目を閉じて答えました。
「突然の事故で亡くなったんだ。十年だろうと二十年だろうと、忘れられないんじゃないかい」
「だったら、母さんは反対なんだね」
「ちがうよ。もう立派な大人なんだから自分のことは自分で決めればいいさ」
雪絵は呆れたようにため息をつきながら、硝子の引き戸に目をやりました。
春花がその目を追って外に目をやると大粒の雨が降りはじめていました。いよいよ台風も本格的になってきたようでした。雨粒が硝子戸をたたいています。
雪絵は仏壇にむかって再び手を合わせていました。いつの間にか位牌がふたつになり、書院甲板の上の遺影が一枚増えています。増えた遺影に写った女性は長い髪を後ろで束ねていて、目元がやさしく微笑んでいました。前妻の昭子の写真でした。
「ごめんなさい」
春花は二人に聞えないような小さな声で言いました。
「お義母さん、やっぱり賛成してくれなかったわね」
「妻のこと、僕以上に母さんは引きずっているんだよ」
雪絵が二階に戻った後、誠は壁にかけられた雪絵の絵を見上げて答えました。
妻という言葉を聞くと、春花の胸はざわつきましたが、それを表に出さないように抑えました。
春花には結婚の許しを得るほかに、もう一つ話さなければならないことがありました。そのことを誠にはまだ話していませんでした。
雪絵に話す前に誠に話さなければならない。雪絵が二階にあがっているうちに伝えようと思いました。
勇気をだして口を開こうとしたとき、玄関の引き戸がガラガラと開いて男の枯れた声が飛び込んできました。
「避難命令が出ているぞ。はやく逃げる準備をして公民館にいきなさい」
誠と一緒に玄関に出てみると、作業用のジャンパーを着てヘルメットを被ったずぶ濡れの男が立っていました。
「避難ですか」
「ニュースで言ってるだろう。お宅の裏の崖だっていつ崩れるかわからん。避難するならいまのうちだ」
男は早口で捲したてると「ほかの家もまわらないといけないから」と、怒鳴りながら引き戸を荒々しくしめました。すぐに車を走らせるエンジン音が聞えてきました。
「おおい、避難するように言ってきたぞ」
二階にむかって誠が声を張りあげました。戸が開く音とともに「さわがしいね」という雪絵のだるそうな声が聞えてきましたが、すぐに階段をおりてきました。
「ばからしい。外に出るほうがよほど危険というもんだ」
雪絵はちらっと春花をみると、わずかに足を引きずりながら居間に入っていきました。
玄関の引き戸が荒い音をたてて揺れています。しだいに揺れは激しくなっているようでした。
「避難はどうしますか。お義母さんの言うようにこのまま家にいたほうがいいのかしら。台風だって通り過ぎるでしょうし……」
春花はしだいに不安になっていきました。いくら家の中にいるとはいえ、避難を呼びかけにくるほどの台風です。雪絵のように冷静ではいられなかったのです。