アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
「今日は風がつよいわね」
春花は玄関で靴をぬぎながら言うと、誠の家に上がっていきました。片方の手には鞄と光沢のある紙袋をもっていました。
「台風が近づいてきているからな」
誠は紙袋を受けとると、廊下の横にある居間へ春花を導きました。
居間に入ると八人は座れそうな黒檀の座卓の上に紙袋をそっと置きました。居間は庭に面していて四枚ある硝子の引き戸を開けると、すぐに庭に降りられるような造りになっていました。
「数十年に一度の台風がくるんでしょう。外れてくれるといいんだけど」
「まあ、大丈夫さ。この家は頑丈なんだ。これでも八十年間なんともなかったんだからな」
誠は仏壇の横の床柱の頑丈さを試すように叩きました。
春花は不安そうに硝子戸の前に立って庭をながめました。庭の端は焼き杉の板塀に囲まれていて、板塀の向こう側には麦畑がひろがっていましたが、居間からは淀んだ空しかみえませんでした。風が硝子戸をタガタガと鳴らしていました。
「お義母さんはお部屋かしら」
「いつものように二階で絵を描いているよ」
「声をかけたほうがいいんじゃないの」
「いや、待っていたほうがいい。来ることは言っているから、そのうち降りてくるよ」
誠は春花の横に立って言いました。
春花は緊張をしていました。誠に家にあがったのはこれがはじめてでした。誠は春花の暮らすマンションには何度も来たことがありましたが、春花は来たいと思っていても誠の母、雪絵が来させてはくれなかったのです。誠はなんども紹介しようとしたようのですが、雪絵は春花と会うことを頑なに拒み続けていました。
この日、ようやく春花は家にあがることができました。
どういう風の吹きまわしか三日前、急に春花を家に連れてきても良いと言いだしたのだそうです。誠に聞いても義母の気持ちが変わった理由はわかりませんでした。
台風が接近してきているのは天気予報でわかってはいましたが、天気を理由にこの機会を逃すわけにはいかなったのです。春花は無理を承知でやってきました。この日は挨拶だけして早々に帰るつもりでいました。
「いよいよ話すのね。お義母さん許してくれるかしら。心配で心配で……」
「大丈夫だよ。許すとか許さないとかの話でもないからね」
「でも認めてくれたらやっぱり嬉しいから」
「春花さんのことは何度も話しているから。母さんだって理解はしてくれているよ」
春花は落ち着かず、引き戸の前で左右に行ったり来たりしていました。
ふいに、床の間の前に置かれた仏壇を拝んでいないことに気づいて、あわてて座布団を避けて正座しました。そして線香に火をつけて、リンを鳴らし、両手を合わせて祈りました。
隙間風のせいか線香の煙は真上にはのぼらず、春花を避けるように台所の方角に流れていきました。
「やっぱり、母さんを呼んでくるから」
誠も落ち着かないのか、手を合わせている春花の背中に声をかけると、忙しげに居間を出ていきました。
春花は仏壇に手を合わせながら気づいていました。位牌が置いてあるのは誠の父親のものだけだったのです。亡くなった妻の位牌はどこにも置かれていませんでした。
仏壇横の書院甲板の上には父親の遺影が置かれていましたが、妻のものは遺影もなければスナップ写真もありませんでした。
誠が必要以上に気をつかってくれたのは明かでした。ですがその優しさが悲しくもありました。
祈り終えた春花は硝子戸側の下座に座りなおすと居間の中を見渡しました。年代物の箪笥や手元箪笥が置かれ、その上には壺や焼き物の皿などが乗せられています。
漆喰の壁の上からは雪絵が描いた絵が飾られていました。雪絵の絵には庭を囲っている焼杉の板塀の先の方にうっすらと見える山が描かれています。おそらく二階の窓から見える景色なのでしょう。なだらかな稜線の山は空気を纏って穏やかな山並みでした。
ふいに障子がひらくと、和服姿の小柄な女性が入ってきました。腰はまがり、髪は白くなっていましたが、目つきはしっかりとして凜とした雰囲気が漂っていました。