【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『おしゃれな家』万野 恭一


 正直僕は少し疲れていた。何も浮かんでこないのは、それで頭が働かないのもあった。この家に来てからの一カ月、土日や休日はほぼ一日中家の改装作業にあてていた。平日も、仕事や家事や食事以外の空いた時間はほとんどそれにあてていた。けれど僕たちがこの家にかかりきりになったのは、何もこの家にやって来てからのことではない。
 不動産屋とのやり取り、銀行とのやり取り、この家の前の持ち主とのやり取り、そして前の家の荷物の整理や引っ越し作業など、僕たちはここに来るかなり前からずっとこの家のことにかかりきりだった。
「いつ終わるのだろう」
 僕の頭にふとそんなことが過る。いけない。せっかく自分の城を手に入れたばかりなのに、そんなことを考えるべきではない。僕はそんな気持ちを振り切ろうと部屋を出て、廊下を歩いて寝室に行き、そこの掃き出し窓からベランダに出た。
眼前には色とりどりの屋根が、相変わらずどこまでも広がっていた。丘を吹き上がる穏やかな風が、正面から僕の顔を撫でていた。ふと右下の方に目をやると、隣の家の庭が見えた。アジサイやバラや名前の知らない白い花の生垣に囲まれた、美しくて広い庭だった。家と同じくらいの背丈の桜の木が生えていて、その下には白いガーデンテーブルのセットが置かれていた。テーブル一つにチェア二つだった。そのチェアの一つに女性が腰掛けていた。足を組み、その膝の上に文庫本を拡げていた。女性はブラウンのワンピースを着ていて帽子はかぶっていなかった。桜の木の枝が、まるで女性の頭上に両手をかざすように伸びていて、実に丁度よい木陰を作り出していた。豊かな長い銀髪が、時おり風に揺れていた。
僕はその女性に、と言うよりその光景に、しばらく見惚れてしまっていた。すると庭に面する掃き出し窓から初老の男性が姿を現した。高田さんだった。彼は右手にワイングラスを二つ、左手にワインのボトルを持っていた。高田さんは例のイタリアっぽい鼻歌を歌いながら女性の方に歩み寄り、テーブルにワインとワイングラスを置いて彼女の前に腰掛けた。女性は本を閉じ、テーブルに置いた。高田さんはとてもゆったりと、けれど手慣れた手つきでボトルの栓を抜き、グラスにワインを注いでいった。鼻歌はまだ続いていた。女性はテーブルに頬杖をつき、その様子を楽しそうに眺めていた。二つのグラスに半分くらい赤いワインを注いだところで高田さんはボトルを脇に置き、グラスを一つ持ち上げた。女性も少し遅れて持ち上げた。二人は「チン」とグラスをあわせ、それを同時に口に運んだ。
僕ははっとした。そして慌てて両手の親指と人差し指でL字を作り、それを合わせて四角いキャンパスにした。高田さんと女性。ワインとワイングラス。様々な花をつけた豊かな生垣。彼らを優しく覆う桜の木。高田さんの出てきたアイボリーの壁にオレンジの屋根の家。
キャンパスには完璧な絵が完成されていた。
僕は大きくうなずいた。僕の中で、全て合点がいったのだ。
僕は室内に戻って自分の部屋の前を通り過ぎて階段を下り、そしてキッチンに行って冷蔵庫からビールの缶を二つ取り出した。
僕は再び二階に上がり、妻の部屋に向かった。扉は開け放たれていた。妻は書棚の整理をしていたようだった。書棚の一メートルくらい前に立ち、腕組みをして上目遣いで書棚を睨みつけていた。まるで、書棚に説教しているかのようだった。
僕はビールの缶をコンコンと扉に打ち付けた。妻はこちらを見て、そしてビールを見て「いいね」と言った。
僕たちはその場で床に座り込み、缶ビールのプルタブを引いて乾杯をした。妻はごくりと一口のんで、それから「ぷはあ」と大きく息を吐き出した。
「楽しいね」
妻が少女のような屈託のない笑顔でそう言った。僕は「うん」とうなずいた。
僕はとても満足だった。

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