アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
今日からじいちゃんが来る! 小学3年生の陸は、朝から興奮していた。じいちゃんというのは、陸の父方の祖父、宇一だ。祖母が亡くなったあと、山で一人農業をしていた。宇一はもうすぐ80歳になるとはいえ、まだあと10年くらいは元気に畑を耕しているはずだった。
夏休みに家族で遊びにいくと、古くて大きな平屋の家はサッシなんかなくて、夜、表に面したガラス戸を全部網戸にして座敷に寝ていると、昼の暑さが嘘のような涼しさだった。遠くから黄緑色の光がふわふわと飛びながら近付いてくるのを見て、幼かった陸が「人魂が僕を襲いに来た!」と泣き叫ぶと、父親の洋一が笑いをかみ殺して言ったものだ。
「あの飛び方はゲンジボタルだな。裏の川の方から飛んでくるんだ」
なんで、飛び方でゲンジかヘイケか分かるのか。陸は不思議でしょうがなかったが、あの家で生まれ育った洋一には、子どもの頃から見慣れた風景だったのだろう。怖がりの陸をからかうように、ゲロゲロとカエルが鳴いていた。
祖父の宇一が重い糖尿病を患っていると聞かされたのは、陸が小学校に上がった年だった。それまでは診療所の先生にもらった薬を飲んでなんとかなっていたのだが、妻に先立たれ、男やもめになってからは、食生活に気を配るわけでもなく、元々酒好きだったのが災いした。ついに週3回透析をしなくてはならなくなって、ならば同じ県内に住む末息子の洋一の家族との同居話がトントン拍子に進み、宇一は山奥の家を閉めて、県庁所在地にある陸の家にやってくることになったのだった。
陸が学校から帰ると、公園の桜の花びらが迷い込む縁側に宇一がひっそりと座っていた。去年会ったときよりも小さくなってしまったような気がした。
「じいちゃん!」
縁側に走り寄り、ランドセルを座敷に放り投げる。
「おお、陸か、お帰り」
ポロシャツにカーディガンを羽織った宇一は、田舎で見るよりも小ざっぱりしていた。だが、長年農業に勤しんできたので、日焼けがしわの間にまで入り込み、陸の頭を撫でる手の平は大きくて節がごつごつとしている。
「じいちゃん、病気は大丈夫なの?」
「うん、じっとしている分にはいいんだよ」
宇一はにこにこして言った。
「これから世話になるよ。よろしくな」
返事の代わりに陸は宇一の背中にへばりついた。宇一も嬉しそうに孫の重みを受ける。そのとき、
「陸! 帰ったらうがいと手洗いでしょ⁉」
母親の貴子の叱責が飛んだ。
「おじいちゃんはご病気なんだから、外からばい菌を持ち込まないで!」
いつになくきつい貴子の物言いに、陸は舌を出して宇一から離れた。宇一も舌を出して見せた。
宇一の通院は、貴子の役目になった。週3回、朝、陸が登校するより前に二人は軽自動車で、駅向こうの佐藤内科クリニックまで出かけていく。透析には半日もかかる。陸は一度、学校の振り替え休日に一緒に病院までついていったことがあった。ベッドに横になる宇一の腕に透明のチューブが取り付けられ、機械につながれると、宇一の血液がチューブを通して機械に入っていく。貴子によると、宇一の血液中の老廃物を取り除いてきれいな血液にするための儀式なのだそうだ。透析が始まってしばらくすると、宇一は軽いいびきをかき始めた。
「おじいちゃんの腕の音をきいてごらん」
佐藤先生は、宇一の腕に聴診器を当てた。陸は恐々イヤーチップを耳に差し込んだ。途端にザーッという低い音が聞こえた。
「おじいちゃんの血が流れる音だよ」
陸は血が流れる音が聞こえるということに驚いたが、それはまさしく宇一が生きている証拠だと思えた。
透析が終わると、宇一はとても疲れているように見えるが、頬のつやがよくなって、夕飯時にはすごく元気になる。宇一が来てから、おかずの味が薄くなったのに、陸は気付いていた。
「この味噌汁、味がしないな」
文句を言う宇一に、陸は本気で腹を立てる。
「何言ってんだよ、じいちゃんのために薄くしてんじゃないか。しょっぱいものは食べないように、佐藤先生に注意されただろ?」
「ああ、しょっぱい塩鮭とおしんこで茶漬けを食べたいもんだ」
「いけませんよ、お義父さん」
貴子にたしなめられる宇一を、陸は子どもみたいだ、と思う。この家でいちばん年を取っているのに、宇一の言動は幼児のようだ。陸は宇一の小さな我がままを見ると、イライラするのを抑えるのに苦労するようになっていった。特に宇一は食欲は根深いようで、陸がおやつにおかきをぼりぼりかじっていると、側で羨ましそうに見ている。