【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『はじまりの日』川瀬えいみ

 夏でも涼しい山道を抜けた場所にある、隠れ里のような小さな集落。
 夏空の高さも、水の色も、肌に触れる空気の感触も、下界とは違っていた。
 赤い宝石のようなグミの実。緑色のビー玉のようなスグリの実。黄色いハンゴンソウ、白いオカトラノオの花。
 夢のように美しい妖精の国だった。
 大人の姿はなく、あの不思議な世界に、私と彼女の二人だけで遊んだ。
 あれは夢だったんだろうか。いや、確かに遊んだ。
 この地に来るのは、これが最後かもしれない――その思いが、私を動かした。私は、あの日の記憶を確かめるために、四十数年振りに北の山道に足を踏み入れた。だが、四十数年前、確かに歩いたはずの道は途中で消えていた。
 私は、あの美しい国に辿り着くことができなかったのだ。異郷から現世に戻った昔話の主人公が、二度と異郷に辿り着くことができないように。

 最後に、私は、藁にもすがる思いで町役場に向かった。町の地図を示しながら、窓口の女性に尋ねる。
「この山の中に集落があったと記憶しているんですが……」
 私に答えてくれたのは、困惑顔で眉根を寄せた窓口の女性の後ろの席にいた年配の男性だった。窓口までやってきて、ゆっくり頷く。
「ありましたよ。茨乃沢っていう集落が。人も家も少なくなって、四十年くらい前に、廃村というか、廃集落になったんです。今の副町長が子どもの頃、そこで暮らしていたという話を聞いたことがある」
 私たちの会話は、利用者が私しかいない静かなフロアに響いていたらしい。
「なぁに? 私の噂?」
 フロアの入口から、私たちに声をかけてきた女性がいた。数秒後、そのひとが、私を旧姓で呼ぶ。
「もしかして……川野、真理子さん?」
 私と同年代の女性。
「あ……」
 それは、現在この町の副町長を務めている沢山淑子ちゃんだった。

 この町に来るのは今日が最後と、ほぼ決めつけていたその日、私は彼女に再会した。小学校卒業以来、四十年振りに。
 おとぎの国のように綺麗なあの場所が、私の夢の中にある国ではなく、実際にあった場所だと確かめたかったの。そう告げた私に、淑子ちゃんは夢の世界が消えた経緯を話してくれた。
 当時、茨乃沢集落に暮らしていたのは四世帯のみ。学校に通っている子どもは淑子ちゃんだけだった。隣県の市に働きに出ていて、家に帰るのは月に一、二度だった淑子ちゃんのお父さんは、淑子ちゃんの小学校卒業を機に、家族で山を下りることを考えたらしい。通勤の都合も考え、引っ越し先は山向こう。通う中学も、私たちとは別になってしまった。他の三世帯も、ほぼ同タイミングで茨乃沢を出たらしい。
「山向こうに引っ越したあとは、通学も生活も楽になったけど、あの家での思い出は特別で……真理子ちゃんは、あの家に遊びに来てくれた、たった一人の友だちだった……」
 美しく幸福な昔を懐かしむように言って、淑子ちゃんは目を細めた。
「私は、真理子ちゃんのおかげで、自分が住んでいるところが夢みたいに綺麗な場所だってことに、初めて気付いたの。一人でないことの楽しさや幸せにも気付いた。それまで、私は、暗い家の中で、転ばないように下ばかり見て暮らしていたの。小学校に続く山道も、転ばないように下だけを見て歩いていた。顔を上げて、上を見れば、空は青くて綺麗で、世界は光でいっぱいで、明るく綺麗だってことを、真理子ちゃんは私に教えてくれたのよ」
 顔を上げて、上を向いて――そうして、淑子ちゃんは前向きで明るい大人になったのだ。

 私が四十数年前に見た夢は、夢じゃなかった。あの美しい小さな世界は、現実に存在していた。
 夢と現実、昔と今が繋がった不思議に切ない嬉しさ。私の胸は、九歳の少女だった頃のように、軽やかに弾んだ。
 東京に戻った私の許に、淑子ちゃんから、町の民芸館だけで売られているグミのドライフルーツとスグリのジャムが送られてきたのは、それからまもなく。グミやスグリのジャムの素朴な甘酸っぱさは、私に再び幸福な夢を見せてくれた。
 その懐かしい甘さに後押しされて、私は、私の勤め先の製菓材料販売店に故郷の町の特産品を取り扱う企画を提案してみたの。そして、なんとその企画の担当責任者に抜擢された。
 息子の一人立ちを機に、人生の後始末を始めようとしていたのに、永別するはずだった故郷で、淑子ちゃんと再会。それがきっかけで始まった、故郷の町との新しい交流。思いがけず忙しい日々。
 人生は、常に、何歳になっても、出会いと発見の連続らしい。
 私も、まだまだ五十代。幼かったあの日のように、後ろと下ではなく、前と上を向いて歩いていこうと思う。

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