アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
生まれ育った家を取り壊すことになった。
大学入学のために上京し、そのまま都内で就職、結婚。
実家には年に一度、息子を連れ、避暑を兼ねて盆に帰るばかりになっていた。両親が亡くなり住人がいなくなってからは、惰性で、家の掃除をするために帰省しているようなものだった。
私の生家は、東京から新幹線で約二時間、更に第三セクター鉄道で一時間以上かかる場所にある。築五十年を超える古い家だ。
隣家までの距離が五十メートル。間に大根畑が鎮座ましましているような田舎で、売りに出しても買い手がつく可能性はほぼ無い。処置に悩みつつ、両親が建て、長く暮らし、私の幼い頃の思い出がぎっしり詰まった家を放っておくこともできず、最低限のメンテナンスだけは続けていた。
そこに降って湧いたのが、現在同居している息子夫婦が住む家を建てたいので土地を売ってほしいという、大根畑の向こうの隣家からの申し出。
息子夫婦に側にいてほしい親夫婦と、親夫婦との同居を続けたくない息子夫婦の間で、ややこしい軋轢が生じ、そういう妥協案が出てきたらしい。
渡りに船とばかりに、私はその話に乗った。売値は夫の給与三ヶ月分ほどだったのだが、社会人になったばかりの息子に過疎の町の空き家という厄介な負の遺産を残さずに済むなら、これほど有難い話はないと思ったのだ。
私が寂しさに囚われ始めたのは、大きな気掛かりが一つ消えたことで、私の中に新しい感情を置く隙間ができたからだったかもしれない。
住人のいない家や土地は、確かに処置に困るお荷物である。だが、家と土地を手放せば、私と故郷との繋がりは完全に絶たれてしまう。私は、帰る故郷を失ってしまうのだ。
いよいよ家を取り壊すという連絡を受けた私は、その前に生家の写真を残しておこうと考えて、単身、故郷に向かった。
生家に秋に帰るのは久し振りだった。
もう二度と訪れることはないかもしれない故郷への帰省。
この地は、父の生まれ故郷なのだが、親戚等の係累はいない。そういう人たちは全国に散ってしまった。
私が通っていた小学校は廃校になり、今は石碑が立つばかり。当時の級友たちも、今はどこにいるのやら。
十枚ほど生家の写真を撮ったあと、私は、家の近くを流れる幅七、八メートルの川の土手に立ち、故郷の風景を眺めることをした。
稲刈りを待つ田。まもなく紅葉が始まるだろう山々。
これが最後かもしれないと思うと、幼い頃の思い出が、打ち寄せる波のように繰り返し迫ってくる。そして、寄せてきた思い出の波が引いた浜に、心残りの貝殻が一つ残された。
私には、忘れられない級友がいた。名は、沢山淑子ちゃん。
小学校卒業から四十年。彼女は今、どこでどうしているのだろう――。
私が通っていた小学校は、全校生徒数が百人を超えることのない小さな小学校だった。町の中心から離れた山あいに立つ木造の校舎。私の学年は十四人。男子が八人、女子が六人。
確か、三年生の時だった。理由は忘れたが、五人しかいない女子のクラスメイトのうちの四人と喧嘩をして、私はクラス内で孤立した。ぽつんと一人でいるのが苦しくて、同じく一人でいた五人目のクラスメイトに接近した。
それが淑子ちゃんだった。
淑子ちゃんとは特別仲が良かったわけではない。
そもそも彼女は、女子だけでなく男子からも遠巻きにされている子だった。
いじめというのではない。彼女は口数が少なく、いつも下を向いている子だったのだ。
私が通っていた小学校には登校グループというのがあった。
学校の前を通る県道を西側から来る登校グループと東側から来る登校グループ。そして、学校を起点に南にのびる町道沿いに登校する南側グループ。
淑子ちゃんは校内で一人だけ、学校の北側にある山奥の集落から、一時間半もかけて小学校に通っていたのだ。つまり、どの登校グループにも入っていない子だった。
意識して仲良くしているわけではないのだが、毎日誘い合って学校に通う登校グループメンバーの繋がりは強固。同じグループでないと、家庭の様子を知ることもないし、共通の話題も少ない。そういう事情で、淑子ちゃんは、誰とも“仲良し”ではなかったのだ。誰かと仲が悪いわけでもなかったが。